koichang’s blog

詩のノーベル賞を目指す、本を出さない、自由な詩人。

gravity

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楽天カードのリボ払いも、

ヤフコメも、
スマートニュースのマクドナルドクーポンも、
全部正義。
既にある程度見えている目的や評価基準に従って、
その解釈格子の中で「高得点」を目指す


そんな風に世界が切り替わっていく“タイミング”が、
シンクロすると、とても気持ちがいい。
権威や常識によって天下り的に決定されたルール、
社会そのものというよりも、社会の背景、前提条件。

レンズを通して見た光の結晶を切り出す手つきは、
洗練されて破綻がないのがのぞましく、
できるなら、匂い、界隈への反応が強調されているのがいい。
身近なボヘミアン的な環境で出会った人物達、
ラフな格好で、自然体を装う、
―――【貧乏人】


そして路上でスーツ姿の男が殺虫剤をもって構えていて、
橋の欄干の上で仮面ライダーのポーズを決めてくれる、
ティックトックで変顔してくれる男の子も、
ちょっとHな格好してくれる女の子にもグッジョブして、
日常生活などマジグッドバイとか韻踏む、
この傑作、快楽、
それが僕等の一時的な『ストレス発散』になり、

それが僕等の『胡散臭い現実を癒す装置』になる。


熱中症アラートが北海道で初めて出た。


それは無意識であり、身体であり、身体が置かれている環境であり、
その環境を規定している様々な諸コードであり、
同時に、環境そのものが持っている、
コードを越えてコードそのものを書き換えることのできる、
潜在力のことだ。
(問題化されて可視化されているような問題を、
物語化することによって啓蒙するように、)

だがしかし、難しいなんて思う必要はない。
IQが低かろうが馬鹿だろうが、
「隣に有能な人間をつければいい」だけのこと。
「社長たちがどうして美人の秘書をつける」だろう、
また何しろ「美人という職業がある」のは何故だろう。
「営業職はイケメンである方がいい」と思うのは何故だろう、
―――それは『心理学』だ。


けれど僕はそんな不公平に眼を向けるべきではないと言い、
あなたはどうしてそういうあなたになったのか、
と優しく問い掛ける、
ドヤ顔、論破、わかったつもりになるが、

実はまったく答えになっていない詐欺師の論理よろしく、
うすっぺらいあなたを肯定し、救済し、
なんだったら激励し、時々には𠮟咤までし、

生きている価値がないなどと言わず、
そのクオリティライフをストロングゼロにする。
でなければ、猛暑でタイヤが破裂する。


僕はスーパーの商品の割引の話をし、
半額のシールの喜びを狒々のように語るだろう、
そうするだけで、
AFURIのラーメン屋の炙りコロチャーシュ飯》が、

七百円越えなんだぜとブチギレする予定調和になる。
その為だけに“コーラにメントスを入れて”しまうだろう、
あとその為だけに“電気量販店のマッサージチェア最高”と言うだろう、
コロナになるから温泉にだって行けない、
ホリエモン絶対間違っている、コロナは怖い、
と炎上要素をチラッと長い舌のぞかせながら、
ファイヤードラゴンすることを忘れない。



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フレーミング




僕は時事流行に対して、
<一年以上開いている>という制約を設けていた。

でもそれが<半年>になり、
気が付いたらそれもいいんじゃないかと思うようになり、
イムリミットの見直しを進めた。
どうしてそうしていたかと言えば、

一つには状況整理をスムーズにするため、
一つには嘘や間違いを含まないようにするため。
もっぱらは後者である。
また無関係な道徳キチガイ人たちは、
社会正義は説けても、
それが筋違いだという当然の認識はできない決まりだから。
関わり合いになりたくない。


もちろんそれは一つの目途ある、際限ある、現象にすぎない。
その現象とは類似項目のある現象だ。
「物事を単線的な、つまり意識化可能な因果関係の連鎖として捉えると、
その背後にあるものの広がりを伴った通路」が閉じられてしまう。


馬鹿にもわかるようにちゃんと書く、

僕はルビをちゃんと振る詩人だからね。
ようは馬鹿があぶりだされる世間がよくわかる構造。
それ以上ちゃんと何も考えなくなる。
世間ってこんな具合、社会ってこんな折り合いのつけ方、
世の中って言葉が人歩きする、世界を断定することもできると思う、
全部嘘、全部間違い、
僕等は誰一人として完全情報を行使することができない。
とあるパターンとしての通行手形のような完全情報を、
​​ダウンロードしている。


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タッチパネル。


そしてこの言い方や考え方にもバリエーションがある、
幅を持たせると誤差や違和感が殆ど目立たなくなるし、
なんだったらカロリーゼロと同じように存在しないことになる。
もちろん、それは『文章上のトリック』にすぎない。
沢田研二に言わせれば、『恋のバッドチューニング』ってね。​​



でも金属や硝子の魅惑的な輝き、季節ごとに鮮やかに色づく花々、

天道虫や蝶のいる草原や小川の光の戯れ―――、
抒情詩的だ、詩的散文の世界だ。
だが、超級国民になってくると、そのようなものはいらない。

さらけ出された危険な領域には劣等感や、集団行動、
その前提にある遺伝の問題などから、
しいてはルサンチマンが萌芽する。


彼等は一様に感受性がなく、教養がない、
知ったかぶりをし、ユーチューブのコメント欄や、

ネット掲示板などで誹謗中傷罵詈雑言の大活躍をする。
この超級国民の手口は揚げ足取りであり、
浅い見識と共感を呼びかけるNPCみたいな連中である。

おめでとう、
そのような馬鹿にもわかるように値段の話をし、
注目度と影響の範囲内を付記してやるサービスを、
絶対に忘れてはいけない。
世界は階級社会であり、溝以前に分断が存在し、
その分断とは七つの大罪風に理解してもよい魂のステージが存在し、
攻略方法はその人間の趣味や、考え方の背景になるもの、
どういう粗があるかなどを徹底的に洗うこと。




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フレーミング



言っておくが、粗のない人間など存在しない。
粗がない人間がいるとするのならばそれは仮面をつけていて、
ミスやボロをまったく出していないようにしているだけだ。
学校の教室にいたおすまし猫を思い出してほしい。
猫は可愛い。そういうことだ。
学校の場合、本当にその猫がそのことを信じて可愛い場合があるが、
大人という通過儀礼、洗礼、社会常識を学んだ今、
そのような猫が天然記念物であることは疑いないことである。
ではこの“粗”とは何か、である。

言い方を変えよう、『馬鹿を黙らせる方法』のことである。


あのね、馬鹿な主婦のために僕だって言うのさ、
今日は仕事でクタクタだったけど病院へ行って、

ずっとテレビ観ていて面白かったよってね。
イイネと共感の嵐さ。
僕は料理も作るからね、もう料理の鉄人さ。
ザ・パーフェクトな詩人にもなってくると、
三級品や四級品がゴロゴロいる、
現代詩手帳や詩と思想を寄せ付けない。
ネトウヨ戦記とでもいうべき各種詩の投稿サイトが、
もう何かの遺物のように見えてくるこの頃である。

一時間も待たされたなど嘘でも口にしてはいけない、
スマートな詩人は忍耐強く、辛抱強く、一点突破の瞬間を待つ。

気が合う類とか、信用できる良い医者だとかもあまり言わない方がいい、
そういう種類の配慮の仕方ひとつで、
人は僕をカウンセラーや、師匠と見なす。
本当にそうであるとしても世の中には好き嫌いというのがあり、

善悪があって、勝ち負けがあるらしい人達が、
驚異の九九.九パーセントの世界なのだから。
大義名分に寄りすがり、大したこともせず、
日銭を稼いでは即自的快楽で消費のループ運航。
巨獣の終焉地、惑星の尿溜、冥路の国線へ。


もし、記憶の乾板に焼付けられたら―――、
自我が焼き切れたと思った方がいい・・・。




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タッチパネル。



詐欺師スピリチュアル列伝系統の本を読む、
先入観や視野狭窄。精神的人口密度を、
客観的に俯瞰できない奴らの駆け込み寺らしい、
ご都合主義的な文章に辟易する。

そんな中途半端な人生ゲームの達人より、
ヤフー知恵袋やクオーラで十分だ、
逆説的に言ってしまおう、何処までいこうが、
何を聞いてもとんでもなく素晴らしい答えに、
巡り合うということはない。
上っ面を撫ぜるがごとき、
神経を逆撫でにする文章を書く方がまだえらい、
郭公や不如帰、そしてついには詠み人知らず。
しかし無名の大衆、発言権なき自由の権利とは何か?


そもそも人は当たり前のことにも気づかない。
無自覚に思い込んでいる正しさやもっともらしさっていうやつ。
見落としがちなことだが、これは人間真理の中でも、
僕はかなり重要なことのように考えている。
でなければ人に物を教えよう―――とか。
さもなけりゃ人に何かを教わろう―――とか思わない。
何故なら、すべてがやはり宗教的ないしは動物的な力関係で存在し、
そこにおけるノウハウや、感じ方や捉え方も、
所詮は大体同じようなものだからである。
認知や記憶の脚色作業を行い、
美化された記憶を呼び覚ますトリガーとして利用する。
もう一度言おう、
そもそも人は当たり前のことにも気づかない。
そういうことを引き寄せて考えられない生き物なのだ。
もしこの人間真理から絶対的な悟りを開いた人がいたなら、
それはもう間違いなく基督だ。仏陀だ。
石を投げよう。


僕が識者だとか、評論家のふりした詩人だとかはどうでもよい、
こんなのを買うならコンビニで肉まん買った方がましだと思う。
死んだ旦那さんの書棚から転げ落ちてきたエロ本に、

お金を払った方がマシだ。
いっとくけど、僕は真面目に話してるんだぜ。

ふざけてると思ってもらっちゃ困るんだよ!
人生なめてるようだったら許せねえんだよ!
しかし、いい読書だったねと褒めてあげよう。
本自体読まなくても生きていける世界って素晴らしい、
政治なんか何一つ知らなくても生きていける日本って素晴らしい、
麻生太郎も言ってたね。
何の価値も、絡繰りにも触れない、浅い見識の人間の本を読んで、
一帯あなたは何処へ行こうとしているのだろう?
未来へ? まさかまさか、首尾不如意の縮図のごときもの、
あなたが進むべきはノスタルジーの標本である。



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フレーミング



付け加えよう。
世の中には競馬と競艇、パチンコ屋、風俗、
それから仕事を往復する童 貞野郎たちがいるのだ。
つがい、性的パートナーを見つけられない馬鹿は、
ナショナリズムに酔いたい傾向がある。
自尊心肥大型の傾向がある。
統合失調症的な傾向がある。

僕も二十代の時には否定的だった、三十代は中立派だった、
でもきっと四十代になったら肯定派に堂々の仲間入りするだろう。
すべてのものが忽ち背後に寄り重なってきたなら、
それはやはり庭園だろ―――う、
箱庭だろう、小さな小さな子供の自分を見るだろう・・。


まず【優先順位】について考えたい。
次に【重要度】について考えたい。
(たとえばそれは篝火、それを取り囲んで、
人は何かが起こるのを待っている・・・、)


もちろん僕は人間に期待したい、世界に期待したい、
もちろん、ひとりひとりが勝ち負けじゃなくて、
自分自身と向き合った結果の価値を常に追い求めている。
一瞬一瞬に本気になって取っ組み合って失敗して、
時々成功するようなことが一番価値があると僕は信じてる。

地位や名誉やお金は、
僕が考えている生きているのを修行と見なす、
一番高い次元においては、
(あるいは馬鹿には見えない世界においては、)

何の価値もない。これは了解して欲しい。
僕はそうだ、誰が何と言おうが僕はそうだ。


意識が高い系とか、精神修行を前世で終えてきましたよ系、
スターチャイルド的な見方、解脱的な手法、超越的な物の考え方、
―――とも、違うのだ、
僕はそういうのを詩を書く中で見出した、
『一番まともなことは何なのか?』と考えることで、
『地に足がつかないものと人間の最終目標は似ている』と思った。


けれど、それはあなたではなくて僕による考え方で、
僕は自分が特別だとかえらいとか、

価値がある人間だとは全然まったくつゆほどにも思わないけど、
残念ながら前述したように大多数の人間はもっとうすっぺらい。
ドラマチックな転機には閉口する、そりゃそりゃね、
猿芝居みたいだ、悪質な虚偽の説明だ、地獄の黙示録だ。
怠惰と罵り、卑俗と嘲笑しよう。
でも本を読まなくても死ぬまで平気であるし、
政治と一切かかわりを持たなくても死ねることを忘れてはいけない、
色んな人がいて色んな価値観がある、
そこにおける喜怒哀楽っていうのは大多数の集合知に等しい。
ああ、尻っ尾のように細くなって下流の闇のなかへ消えてゆく、
―――【川/河】


僕も怒る、家を買う話で平日に銀行とローンの話をしなくてはいけない、
その理由はもっともだしわかる、でも、馬鹿なのかなと思う。
みんなが何も言わないのもわかる、
でも、わざわざ会社を休んで平日に打ち合わせをすることの意味なんか、
六本木とか、五反田とか、東京タワーと同じぐらい中身がないことだ。
複雑な暗いところは一つも無いということは、
重要美術級のものは一つも無いということじゃないか。
“ハルキ・ムラカミという名前”と同じぐらい中身がないことだ。
何で中身がないのかといえば、それをアートとして装うからである。
ジャック・ラカン精神分析でいう対象a


市役所もそうだ、住所変更のたびに何故わざわざ、
元住んでいた市役所まで行かなければならないのか、
関西弁ならこいつらアホちゃうかと言う。
でもアホではない、制度というものが心筋梗塞を起こしている状態、
法律が麻痺現象を起こしている状態のことである。
何故いちいちこのような遠回りをするか、オブラートで包むか。

気を遣っているのである、だって僕が思うことは、
多くの人がもちろん思うことだからである。
でも切り替えは必要だ、分かり易く言わなければならない、
アホなのだ。そういう認識でいい。
文章の最大の技術は想定能力だと僕は思う、

詩の最大の技術が感情表現だと考える僕の意見からすると、
多くの人はニヤニヤしてしまうかも知れない。
システムにバグやエラーがあれば責任を取らされて頭を下げる、
営業ノルマや納期が達成できなかったら頭を下げる、
同じことだ、カマを掘られたりチンコをしゃぶったりすることもある、

靴を舐める、泥水をすすることもある。
みんな同じなんだ、優劣なんか何処にもないんだ、
そんなのは誰が何と言おうが当たり前のことなんだ。


でもね、みんなが本当にみんなの幸せを考えられる世界を、
望まなければいけないっていうのはそうなんだ。
そうなんだよ、わかるかい、理想が大切ってこと、

そして時代は少しずつそこへ向かって切磋琢磨してるってこと、
潤滑油も人、バランスも人。
けどさ、大上段のそいつはキャッチフレーズや、合言葉、
横つながりの連携にはなってもさ、救済にはならない。
現実的手段になることはないんだ。

でも、みんな飽きていたのさ。
感情で動く動作にも、経済で動く動作にも―――ね。
もっと変った動作は無いものか?
もっと面白おかしい見世物はないものかしらん?




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タッチパネル。



どんな立派な文言並べようが、ボーカロイドしようが、
核兵器はなくならない。

戦争だってなくなりはしないだろう。
運動だって、後から後からおし寄せる影に戦いを挑む思案の格好だろ、
(冷静に分析してみろよ、)

言わなければなくならないとは言うが、
こんな調子で百年や、千年というスパンを生きられる長寿、
健康な身体などがあればそれもいいだろうけど、
(いつか、素敵な言葉だ。
くたばりやがれヤンキース、)

いちいち言わなくてもわかるよね、
御伽噺乞食だ、感性のめくらだ、

そんなのどうでもいいことだって言おう。
どうでもよくはないよ、でもそれを僕や君が、
ごめんよ政治家が、なんだったら兵器演習しているような国で、
何をいわんや、だとは思わないか。無理がある。嘘が出る。
博愛主義に人道主義

原爆ドームに行ってこんなの絶対に使っちゃいけないってすぐわかる、
銃だってそうだ、できるならこんな道具使っちゃいけないって思う、
でも、戦争になったら武器がいる、
相手が原子爆弾持ってこちらは原子爆弾なしでいけるかといえば、
そんなの誰がどう考えたって無理な相談だ。

どのレベルで話すか、何処まで踏み込んだ物の見方が出来るか、
―――それはただ、好き勝手に喋る人間には存在しないものだ。


物わかりのいい連中ばかりが集まる大学ですら問題は起きる、
良識があるはずの教師や警察官、弁護士や裁判官までもが、
問題を起こす。
その原因は何だって一から十まで情報収集して、推測や推理をして、
慮って、悠っくりと熟考することもできる、
そういう姿勢って僕がジャーナリズム詩を書く時には存在していた。

僕だってそう思った、そんな風にちゃんと考えていた時期もある、
(もちろんいまだってそのように考えたいとは、思ってる、)

だけどね、それは書くべき姿勢によるもので、
そこから離れたら、たんなる時間の無駄だ、

申し訳ないけどね、そんな奴どこからかゴキブリみたいにわいてくる。
そんなことに一秒だって時間を費やす必要はない。

いまじゃなんだったら、ちゃんとやってる人がいて、
その人がすごく肩身の狭い思いしてるって言いたくもなる。



考え方は変わる。群衆の壁、都会の喧騒の壁の中でね、
田舎が原始的ではなく、原始的な要素である、
生物学的な地点から発生する
因習的なものが根強い、
という言い方ができるみたいにね。
普通そこまで考えないだろう、
でも一つ一つ言葉を丁寧にときほぐしてやるんだよ。
ねえ、愛は一番根幹のことだ、でも、コンビニで買えるし、
自動販売機でも買えるって、流行歌にもあったね。

それならきっとアニメでも見つかる、
一番大事なこと、一番大切なことは、自分が幸せになることだ、
これも色々考えたよ、だけどねまずそこからなんだ、
生の充実感の目標なくしてどんな優しさも、まともさも、
信用や信頼も生まれてこないのだと僕は考える。
次に思うのは迷惑かけなきゃいいよねって思う。
迷惑かけまくる人間が多いからね、
寄りかかるとかいうことじゃない、屑が多いよねってことだ。
しかし熱くなりすぎちゃいけない。
政治的活動やストライキや反社会的行為等、
支配者層にとって都合の悪い状況から分断する。

線引きは必要だよ、二枚舌だってことじゃなくてね。


しかしそんな屑にも味方はいる。

愛に餓えた人間は弱さを肯定してくれるものを愛する、
サザンオールスターズしかり、長渕剛しかり、中島みゆきしかりだ。
洗脳ソングを聞いて万歳三唱ぐらいするべきだ。
でもそいつら全員、肉体労働のしんどさがどういうものか、
トラウマや、心の傷に死ぬまで苦しめられるというのがどういうものか、
残念ながらわかっていない。
宗教のリーダーが、信者に訴えかけているのに等しいという構図は、
どんな不倫バンドにも見られる傾向だ。

まともすぎると病んでくる、
人生が辛くなって歌うのも嫌になってくる、
―――【表現者としての試練】


幻想は続いてるんだよ。
しかし、いつまでも古いノスタルジーに雁字搦めにされていてはいけない、
というのもフェイク。
それを取っ払った、ブレイクスルーしたって思いこんでみたところで、
文明が始まった時から発酵し始めた幻想の馥郁たる薫りだね。
一つや二つ皮剝ぎ取ったつもりでもまだまだ深層、中枢には至らない、
もっともっと考えてみて。
でもその偽物を本物らしく見せる思い込み、
思い込みの中の熱量だけは信じてあげてもいいんじゃないかと思う。
僕も生きてる、だから君も生きてる。
それでも興行収入や商業的価値観、資本イデオロギーという、
大きな共同体に呑み込まれることを恐れてはいけない。
愛すべきコマーシャリズムだと揶揄するしかない。
結局人気取りのインスタグラム脳、
本当はどれだっていいようなものしかそこには存在していない。
多様性の時代、LGBTQといった性的マイノリティ、
最大公約数的なものばかりが正しいわけじゃないのはみんなわかってる、
でもそれを信じてるのも―――『幻想』
(重力から逃れたくて僕等は遠くへ逃げているみたい―――だ、)

遠い街道の孤独の電燈を眺めよう。
深い闇のなかから遠い小さな光を跳める感傷―――は、
石を投げられたように俯いている君の見えない表情を
ほのかに染めている。
“残酷”だとか、“不条理”だとか、
「何十年もの通勤電車の苦悩」は、
ブラック企業とわかりながらこき使われた社畜」は、
何処へゆくのだろう、
そこに一体何があるのだろう、
まるで泥船、箱舟、いつかは沈む船を補強して僕等は乗り込む、
コンクリートジャングルの渇いた海へ、
みんな心がばらばら、それでも集団的無意識、
言葉なき想いを信じて乗り込み続ける、
PCのゲーム画面をそのまま撮影したような景色を見ながら、
水を張った風呂に半ば身体を沈めて微アルでも飲もうか?
 
 
 
 


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