運動をしようって思う。
デスクワーク中心、
趣味も静動力モードの漫画やアニメに音楽、
こんなことじゃいけないって思う。
ノー・ファインダー。
「「「接続
そういう"噛みあわせ"にフォーカスしていく、
「無駄なこと」がどこかでバタフライエフェクト的に、
効いている可能性は否定できないと大上段で、
ジグソーパズルの一ピースを見て、
謎の副産物の正体を思い知ったりする。
ようは、運動をして肉体改造した友達が、
ちょっと羨ましい。
《細マッチョという響きには、
マッチをするような意味もあるような気がする、これは摩擦だ、
肉体の摩擦だ、三島由紀夫のことをひとしきり考える》
でも「痩せた」とか『筋肉をつけた』じゃなくて、
“運動をするだけで世界が変わる”という一言に、
痺れた。
奥尻島高さ十一メートルの巨大防潮堤みたいだ。
一定の成果が出てしまった後に繰り返される行為だと、
どうしてもその成果からのフィードバックを、
無意識のうちに受けてしまって、
ある目的から掴まれ、拘束される感じになる。
なんだろうね、マウント取られたとは思わないけど、
清々しい声で、気持ちのいいキャッチフレーズを口にされると、
怯えも弱気も陰口も自己正当化も混じるけれど、
あえて触れない手は―――ない。
でもこれは、フレーム全体を引いて見た時の感じで、
少し近寄って、フレームが視界の外に出るくらいの距離で観るとき、
そのことはあまり関係なくなる。
「意識的に変わった構図を探している」
と言えば正しいだろう―――か。
フレームが厳密ではないとしても、
その意図に沿うようにカメラが操られている。
自由に介入できる、
偶発的なフォーメーションに対して開かれている、
―――【奇跡】
人間誰でも足りないものがある、
そしてそれを知り合いや友達、
ようは身の回りから考えつくのが常套手段ってこと―――で。
《スロットマシンのレバーを引く》のだ・・。
>>>壁にくっつけられたカップ麺。
>>>シーリングファンに張り付けられたトイレットペーパー。
だから近所にいる仲のいい女の子と、
少し大きな公園を日没間際の夕方に歩いてみる。
スポーツウェアならぬジャージ姿で。
奮発した、という言葉を使ってみる。
アジテーションしてみたった、という言葉を使ってみる。
安易に眼を向けて、“筋トレブーム”とか、
“ジムが出来た”とか軽口をしているけれど、
(お前、筋トレしたことあんの?)
は序の口で、フレキシブルな判断ができずに硬直。
ねえ、そもそも、
(ジムへ通う根性はついたの?)ってことで。
そこにも「欲望/感情/快楽」の三柱があるわけで、
けして一つに溶け合うことのない、最適化計算が、
バンジージャンプしている⁅仮⁆
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
犬のお尻を眺めているといつもいい尻だな、と思う。
かえすがえすも残念なのは運動能力、
具体的スケールが抽象化されてゆくという不思議な感触はありこそすれ、
運動能力に端を発したそれは軌道的範囲を限定する。
学校のマラソン系ではことごとくビリだったよなー、とか、
なんだったら一度は途中リタイアしたことがあるような奴が、
どんなポテンシャルをもって、
―――【運動】というのか、と・・。
走る速さというのは、
「ストライド(歩幅)」と、
「ピッチ(回転)」の掛け算によって決まる。
解として一定の範囲を示す式に、
問題に沿うように形成されたひとつの例示的な定義に、
謎の楽観を抱いたふりしてみても、
驚くほど何も変わっていない、それが、
運動をしようっていう事柄における、
レイヤーが混ざってきちゃうようなこと。
(それでも脳や身体は、それぞれに別の広さ、
別の深さの記憶や歴史を持っているもの、)
案ずるより産むがやすしとはいうけれど、
まず、一キロ、できるなら十キロという、
この弱気な心の声が既に暗雲―――。
前に野球選手の五十メートル走の記録が本当なら、
世界記録でている、という話を思い出す。
何ということはない、アバウトだから成立する。
―――けれども、重要なことは、そこではない、
五十メートルの記録を強調できるぐらいには、
足が速いということだ。
学生時代に陸上部経験もない社会人は沢山いると思うけれど、
五十メートル何秒、百メートル何秒と聞いてみたらいい、
―――足が速くない限り、まず誰も覚えていないと思う。
(例外はよっぽどひどいか―――だろう、)
想定版あらば実際版もあり、修正版もあり、
もちろん―――高すぎる目標では、
モチベーションもボルテージもテンションも空回りし、
ネクストドアステージしてくれないわけで・・。
「顔(無意識)」を描く、
そして『顔(百面相)』が気になる。
一時間歩くだけのつもりが、十五分歩いただけで眩暈がした、
その時にラジカセの置いてあったカフェを何故か思い出した、
三十分で耐えられない種類の息切れを覚え、
その時に時間の流れの外にいるような感覚で、
ちょっと地面から浮いているようなドイツの城を思い出した、
―――が、するべきことはする、そんなのどうでもいい、
(誰か僕の記憶を洗って、)
《汚れているのが記憶の垢っていうもの、
誤作動するよ、ズレるよ、でもそれが人間さ》
前かがみに倒れるふりして四足歩行、
ひょこっと見えたベンチにスッと腰かけた。
ベストポジション、そしてまず足を組んで空を見上げておいた。
隣にいる女の子は、何してるんですかと囃す。
ノー・ファインダー。
「「「空洞
久しぶりだから、と言う。
疲れたとは言わない約束で。
飽きたと言うにはそもそも何もしとらんやないけ、と。
その、ギアを入れすぎないように、
熱くなりすぎないようにしてみたんだ、と言う。
すごい、こんな情けない言い訳、年下の女の子にしている。
でもこういう時に中原中也入るわけで、
自転車ってすげえとか、車ってすげえと思う。
その時に、人力車を生業としている人が、
肉を食べなきゃ力が出ないと夜中に牛丼屋へ行った、
バラエティ番組のワンシーンを思い出す。
何故だろうか、
真夜中の知らない町を一人で歩く何とも言えない感覚を、
思い出してしま―――う。
ロールズによる無知のヴェールという思考実験みたいだ。
へこんだ方がいいのだか、
褒められた方がいいのだか、
何が成果や成長につながるのだか、
自分のこと全然わからんマンの爆誕だ。
1,高校入って中学と変わったことある?
「金髪や茶髪率の増加、かな」
2,勉強はついていけそう?
「あたし、無理はしない主義なんで、
真ん中狙いの、コツコツ貯金」
それに、ふーんとか、なるほどね、とか、
まったく中身ないことを聞きやがる自分がいるわけで。
隣に一緒に座った女の子の額から流れる汗を見ながら、
妙に安心してしまうのはどうなんだろうな、
変なアプローチが反発をまねく可能性ももちろんあるだろう。
難問だ。
いわゆる反抗期とまではいかないにせよ、
かまってかまってと前はまとわりついていたのに、
(どうも、子供に好かれるタチなんだな、
あと、家の近所で何かフィーリングが合っちゃった感じ、)
だって小学校、中学校も知っている、でも高校生だ、
(もちろん、四十のおっさんなら肉付きの良さに劣情を催したり、
五十のじじいなら一夏の花火計画を妄想するだろう、)
いつの間にかクールに興味ない感じで遠巻きにしている、
そんなタイプの女の子の汗に安心する心理。
3,好きな人とかできた?
「おじさん( ´∀` )」
リッピサービスは大切、
涙がちょちょぎれるわ、と言っておく。
4、おじさん以外で好きな人できた?
「学校の先生( *´艸`)」
根っからの年上好きのようだ、まったくたまらん―――ぜ。
JKはよお、とかアホなことを考えながら、
自動販売機が見えたのでポカリスウェットを二人分買う、
やっぱり女の子には大変だったろうとか調子こいて言ったら、
おじさんには大変でしたねと笑われた。
でもさ、なんでこんなことをしてんだろとは思うけど、
木々なんかじっくり見ることもなかったし、
こうやって好き好んで汗を掻くっていうのもなかったわけで、
たまにはいいよな、と思う。
いや、これから継続しろよと思いながら、
やっぱり、たまにはいいよな、と思う。
だのに、女子高生と一緒に運動したと友達に言ったら、
すげえ羨ましがられる、やっぱり薄い本だ、エロスだ。
全然そんなんじゃない、
大体手出した時点で後ろに手がまわるような気がする、
青少年育成条例とかじゃなくて、
むしろ監視社会の好奇の眼とでもいうべきもの――で。
小学生の頃は手をつないでも平気だった、
「道に迷うから」「仲良し仲良し」
中学生の頃には手をつなぐということがまず出来ない、
「周囲の眼があるから」
「というか、手をつなぐ事自体がもう不純な感じに思われる」
高校生にもなるとそのような発想自体が存在しない、
―――成長する、
大人に近づいてゆく。
システムの維持自体がシステムの目的となり、
それは意味のない様々な習慣、因習、慣例を次々と生み出す。
システム内にいる人は、誰もがそれに意味がないと知りつつ、
しかしそれを変えることができないという状況に陥る。
ノー・ファインダー。
「「「街燈が光る