koichang’s blog

詩のノーベル賞を目指す、本を出さない、自由な詩人。

時間と哲学









時間は人間において平等に与えられるものだけれど、
相対理論的には、人間が速く動くほど、
人間が強力な重力の影響下にあるほど、
外部からはその時間の進み方が遅くなるように見える。

このことからも言える通り、
時間は「絶対的」ではなく「相対的」だ。

アリストテレスによると「時間は直線ではない」という。
彼は「時間は直線ではなく、始まりも終わりも存在しない」
と語っている。

ところで「今/現在」というのは何なのだろう。
それは作業記憶とか作動記憶と呼ばれる、
短い記憶力の能力のことだが、
E.R.クレイとウィリアム・ジェームズはこの現象を、
「見かけ倒しの現在」と呼んでいる。
彼らによると「今」という時間は数秒から数分で、
私たちが「今だ」と認識している時間の事を指す。

車の運転に熟練したドライバーなら青信号が黄色に変わったあと、
何秒後に赤信号になるかが感覚でわかる。
これは、人の脳には「時間を把握する能力」が、
備わっているということを意味する。
「今/現在」が「過去」に変わること―――も。
「今/現在」が「未来」に変わること―――も。

古代エジプト人が日時計を使用していたことは、
文書で残されているので、
ほとんどの歴史家は彼等が一日を、
「いくつかの時間ごとに分割」した、
歴史上で初めての文明だとしている。
最初の日時計は、地面に挿しさった棒の影が示す方向や、
長さで時間を示すというものだった。
紀元前一五〇〇年頃にはさらに高度な日時計が発明される。
その日時計はT字型の棒を地面に挿し、
日の出から日没までにできる影が動く範囲を、
十二個に分割する時計。
この「十二」という数字はエジプトで使われていた、
十二進法からきたものではないかと考えられている。

十二進法の起源は「太陰周期での一年が十二か月であること」
もしくは「親指以外の指の関節の数が十二個であること」
のいずれかであると考えられている。
とはいえ、日中の時間はほとんど同じような長さに感じられるものの、
一年を通してみると、夏は日が長く、冬は反対に短いので、
その時間には時期ごとに大きく差が出る。
当たり前のことだけど、大昔ともなればこれは大真面目なことだ、
「十二に分割された『時間』の長さが、
季節や月ごとに異なる」ものだった。

その頃から既に「日中」と日没後の「夜」という、
相反する印象を持った時間は一つのセットとして考えられており、
(でも考えてみると、この不思議な組み合わせさ、)
これらをまとめて「一日」という概念ができたようだけれど、
当時の人々にとって日時計の助けなしで「夜」を、
細かい時間に区切ることは非常に難しいことだった。
一日が最初から二十四時間に分割されていた、というわけではないのだ。
統計というものを揶揄するわけではないけど、
非常に心理学的な傾向だった、というようなものだね。

しかしながら最初に日時計が使われた時代に、
エジプトの天文学者は天空に円を描くように等間隔で並ぶ、
三十六個の星を観測し、
「『夜』はこれらの星の内十八個を見て、
細かい時間に分割できるのでは?」と考え、
それらの内三つの星を地上から見えにくい星二つと同じものとし、
「夜」を十二分割した。
そしてこの時間の分割方法は、エジプト新王国時代になり、
二十四個の星の内十二個が夜の間に通過する、
といった風により単純化され、さらに古代では、
最も正確に時間を計測できたであろう水時計などを使用することで、
より正確に「夜」の時間を分割できるようになっていった。

さてそんな気の遠くなるような歳月かけて、
拵えられた「時間」なのだが、
「物理的には時間は実存しない」
という言い方もできる。
時間や空間には分割不可能な最小単位が存在すると言われ、
時間や空間の最小単位があるとする理論が、
ループ量子重力理論。

ループ量子重力理論では、これ以上分割不可能な長さのことを、
プランク長、質量をプランク質量と言う。
また、長さや質量と同様に、時間にも最小単位が適用されると、
物理学者たちは考えた。
つまり、時間にもそれ以上分割できない最小幅が存在し、
その時間のことをプランク時間と呼んだ。
これをパラパラ漫画で喩えることもできる。
すなわち脳が錯覚して、時間も動いているように見えているだけで、
世界は物ではなく、実際には出来事の集まりであり、
複数の出来事の関係性を、時間のように感じている、
「人間が作り出した概念」というわけだ。

ニーチェはカオスと言い、
カントは人間における人間の真理と言い、
デカルトは疑ってる私は疑えないと言い、
フッサールは見えちゃってる確信とか言った、
そして僕はそれを細切れにして、
人間が作り出したものは影だったと言う、
人間が作り出したといった瞬間にあったものは光で、
次の瞬間にはすべて影の中へぶちこんでしまったのさ、
おやすみ。

ところで時間における時計回りは日時計に由来し、
これは古代の日時計が北半球で発明されたことに由来している。
ちなみに南半球で発明されていたら逆向きに進んでいたかも知れない。
ディジタル時計にとっては関係のないことだが、
この発想を援用して、
時間は減っていくという風に考えてみたら、
それだけで世界は何か受け取り方が大きく変わるだろう。
時間というのは「幻」だ。

ちなみに漫画などのフィクションの最たるところである、
時間を止めるという話がある。
超能力で、あるいはスイッチで時間を停止させる。
しかし、停止すると一歩も動けないはずだし、
だってそこは空気という牢獄、死を待つ時限爆弾さながら、
動けないどころか空気を吸い込むこともできず窒息死する。
―――という考え方は非常に正しいと思う。

だけれど、僕は時折まったく別のことを考える。
これはだから学問のことにはまったくならない。
けれど、僕はこの世界のありとあらゆるものをまったく信用していない。
もしも「五分前仮説」とか、「水槽の中の脳」のように、
時間というものがまったく別のものであるという可能性はないか、と。

何らかの―――そう何らかの大きな変化を与えた時に、
それはまったく異なる作用を示す可能性はないのだろう―――か。
いやしかし、不思議な出来事って存在するのだ、
何かまったく別のものが僕等に干渉している。
時折、本当に時折そのように感じる一瞬がある。
どうしてあなた方は効果だの、法則だのといって、
現実的に何一つわかっていないという事実から、
眼を背けたがるのだろう―――か。

というようなやくざな難癖はさておいても、
時間というものが確固としてある以上、
それに縛られたりするのはごくごく当たり前なことだ。
セシウム原子時計は三〇〇〇万年で一秒以下、
三〇〇〇万年も存在し続けられるかどうかはさておいても、だ。
小学生がふっと思う、
どうしてお父さんは八時間労働するの、と。
時間は減速したり、消滅したりしないの?
子供は馬鹿だね、けどね集中して物事をよくよく見てごらんよ、
科学の中の真実があまりにも真理に遠く人々の心理にも遠いことを。
実際どれほどの人が相対性理論や、
北半球的逆回りの法則を思い描いているというのか。
とはいいつつ、位置を固定した空中心の写真を、
二十四時間に及んでメガシャキ眠眠打破を飲みながら撮影してみれば、
カフェイン中毒一歩手前でキメきった眼で真実の一端に立ち寄れば、
地球の天地が引っくり返って、
また元の位置にまで戻っていることがよくわかる。
空というのは不思議だ。

地球は太陽の周りを公転しており、
その速度は太陽から見て秒速三〇キロほど。
めまぐるしいスピードだ。
太陽系も天の川銀河の周りを公転しており、
その速度は秒速二〇〇キロ。
天の川銀河も宇宙空間を移動しており、
その速度はビックバンの名残である、
宇宙マイクロ波背景放射に対して秒速五八〇キロだ。

そういえば世にも奇妙な物語のドラマにもあり、
手塚治虫、遡ればピアフにまでいってしまいそうな、
時間の感じ方の話。
もうずいぶん前だけどね、英国の科学者は、
最新のテクノロジーによって、
受刑者の懲罰の在り方を模索し、
実際の八時間を感覚的に一〇〇〇年に、
感じさせることができる薬が開発可能だと言った。
いまどうなのかはちょっとわからないけどさ、
アリスがはニベンズ・マクトウィスプという白うさぎ、
追いかけているのさ。
時間拡張、それがもたらすものは何だろ―――う、
モモ、それは時間泥棒、思想やイデオロギーの寓意、
いやいや、ヴィトゲンシュタインの顔を思い出したね。
それは有意義なことなのだろう―――か、
もっともっと人が死にたくなるようなこと、
もっともっと人が生きる意味を見失うようなこと、
ある日、そうなんだ、近い将来、オトナ語だね、いい傾向だね、
過去や未来って鬱陶しくないかい、いい傾向だね、
バカンスは続くね、星巡りの時間は続くね、そうさ、
「今/現在」が「今現在」に変わ―――り、
“僕”が“僕”という光を見つけて―――。
「今/現在」が「今現在」に変わるの―――さ、
“僕”が“僕”という影を見つけて―――。