koichang’s blog

詩のノーベル賞を目指す、本を出さない、自由な詩人。

イラスト詩「海は広い」









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糸口はない―――くるりと宙返りしてしまうんだ、
音のない海の風にさらわれる・・・・・・。

―――此の重さ。


いつも淋しそうな横顔を見せる、
韻律の沈黙に突き出た突起のような、
彼女のことが僕には気にかかる。
諧謔心だろうか、薄幸そうな世の憐れみだろうか、
彼女がたまに見せる笑顔の向こうにさえ、
さながら花の奥に蜜でもしたたるような、
淋しさが潜んでいる。


思春期、青春っていう時代は、
道化の衣装を着ているようなものだと思う。
花火における赤のストロンチウム
青緑の銅、黄色のナトリウム、
黄緑のバリウム
―――花火師はこの四種類を組み合わせるみたいに、
その螺旋的な前傾運動で、
未知という道を進む。
星はまだ何も語らない。
天の原の匂いがするだけだ。
そこには、染みとおってゆくような熱がなかった。
急いで背伸びしようとするクラスメートの、
大人ぶった知ったかぶりが、
家畜の息遣いのようにも思えてくる。
遠くに赤いポストが見えてくる、
芝居小屋のような小さな田舎の港町が見えてくる。


SNSの話題、漫画もアニメもドラマも、
僕には下らない。
そこに砂から取り出されたる砂金のようなものがない。
もっと下らないのは剽軽者の綱渡り、
あそこの女は胸が素晴らしいとか、
あの腰のラインが素晴らしいとか、
あの容姿がどうだとかいう他愛ない言葉だ。
眼の卑猥さ、無気力な笑い声。
養豚場と一切変わらない。


前に何処かで読んだけど、
性風俗関連産業の試算で、
A Vは年間約一千億円、
ソ ープランドは年間約九一〇〇億円、
デ リヘルは一兆八五〇〇億円。



―――ギャンブルと比べても見劣りしない、
すごい数字だと思う。


割れたガラスの断面みたいに、
僕の心は鋭利だ。
これ以上大きくは開けられないというほど、
大きく開けて口の裏側を見せたい。


けれど僕にはそんなこと、
―――関係ない。


吸うだけで吐くのを忘れたような、
心というのを空っぽにして、魂さえなくそうとするような、
昼間の幽霊―――宙に浮かんだ梯子のような、
華奢な身体にシャボン玉のような羽根を持った、


、、、、
そういう。


いつも何処かに淋しさを見せる彼女は美しい。
病的さ、物静かさ、
ねえそれをアンニュイって言うんだろうか、
夢の中で何処か違う世界へでも冒険した後のようなんだ、
あの気怠さの中には砂漠で泳ぐ魚がいると思う。
クラスの中でどの女の子が一番可愛いかはわかる、
けれども、美しさという部門では断トツだ。
僕はその心の奥の在処がいつも気になって仕方なかった。



僕が初めて彼女と口をきいたのは、
昨年の梅雨が終わったあたりだった。


学校は海が近い。
それで、何となく足が海へ向く。
彼女はもう夜も遅いというのに、
ガードレールの向こうにある崖に三角座りして
海を眺めていた。
そのナイーブな姿が大人に見えた。
僕は一目見た時から、
その青い電球の冬の色のような薄い背中に、
眼を離せなかった。
自動販売機でジュースを買って、
「飲む?」と半ばナンパのような口実で、
近寄っていったのはそういうわけだった。
神社で打つ柏手が神様を呼びだす合図のように、
鳥の鳴き声が洩れた、
陽はまだ一向に沈もうとしなかった。
足音のように波紋が起こり、
風が起こると小波が始まる。


鴎がまだ激しい眩暈地を飛んでいて、
素晴らしく幸福そうな展望を手に入れる。
船が瞳を失った眼のように動いていて、
幼い時の回顧と新しい生活の想像が同時に起こる。
牧歌的であるけれど羞恥をさそうように、
強い風が吹いていた。
しかし白い猫は、
会話にそれほど応じてはくれなかった。


「帰るわ」


シャッターが、突然死んだ。
―――慌てて立ちあがった。


「バスまで送ろうか」
「ありがとう、でも、
あたし、歩いて帰る」


僕はない頭を絞って、
さらなる口実を作ろうとした。
ゴキブリのように瞬間的に高まるIQ。


「もしかして、バスの定期なくしたんじゃない?」
「あるわよ、ほら、定期」


ミステリアスな、彼女。
どんな会話をしても、
針の穴に糸を通し損ねたような気持ちになる。
彼女は淋しそうな表情をする。
僕は頭が真っ白になりそうになるんだ、
ふわふわと身体が浮いてしまう。
それは億劫なほどに始末におえない、
魅了だと思う。


「海を眺めていたかったから、眺めていただけ。
歩いて帰りたいだけよ」


そんな彼女の隣を僕は歩いた。
彼女は一瞬微笑んだような気がする。
木々が揺れている。
互いに身を寄せ、何か言葉を交わしているみたいに、
種子が落ち、葉が落ちる。
鏡の中の人物が消えて、
それがあぶり出しのように闇の中に浮かび上がる。
彼女の家はここから随分遠い。
僕たちは暮れかかった道をいつまでも歩いた。
一番遠い星まで届く溜息のように、
チョコレートの色刷り絵のような景色のなかを、
僕たちは一言も話さなかった。


でも、その時から、僕の心はなお一層惹かれた。
そのまま何処か遠い空の果てまでゆくように、
砂の上を自転車で走るような焦り。
犬の毛の生え変わりが近づき、
台風が来る。


   、、、、、、、
―――いつからだろう。



時折交わされる彼女の瞳の中に、
親しみがこもり始めたと思うようになったのは。
それは認識にすぎず、一歩間違えば、
罵詈雑言の癇癪玉になるかも知れないのに、
そうだ、人間同士の通路、社会的距離、公衆的距離と言ったって、
自分の都合で開いたり閉じたりする、扉。
そこに一際明るくて暗い日暮れ前の光線が射しこむ。
彼女を想う僕の心がそう勝手に受け止めていた・・・・・・。


僕が見る限り、
学校での彼女の生活には、
一切の変化はなかった。
安全や調和の影は屯していた。
そこには必然的に一方の捨象があり、
それは壁の割れ目の地図みたいに思えた。
そんな一挙手一投足に、
僕の神経は耐え難いほど緊張した。


とんちんかんなことを繰り返すにつれて、
僕が彼女のことを好きだという噂は、
友達の耳にも入るようになったらしい。
陰湿な会話を始めるお伽噺みたいなものだ。


「お前、あの女と付き合ってるのか」
「付き合ってはいない」

、、、、、、、
ならやめておけ、と言った。


「待てよ、なんだよその言い方。
お前が決めることじゃないだろ」
「あいつは男を知っている」


何か言い返そうとしたが、
舌の付け根に力が入るばかりで、
まるで言葉にならなかった。
言葉は細かく、鋭く、
芒の裂け葉のようになってゆく。


蛇口の水を締めたあと、
重くすぼまりながら、
白い雫をふしだらに垂らす。


「そしていまのおばさんの家の旦那が、
あいつに手を出しているっていうもっぱらの噂だ」


その、そらぞらしい言い方。
レッテルやラベルをつけて差別をする言い方。
カッときた僕は、頬を殴っていた。

、、、、
殴ったな、とは言わなかった。


「どうしてそんな汚い話をするんだ!」


殴られるとわかっていて、
言ったのは察しがつく。
むしろ、怒らせることで気持ちを推しはかろうとしていた。
そんな、瞳をしていた。
叩き潰された紙風船のような感じ。
―――彼は僕の幼馴染であり、親友だった。


「お前が傷つくにしても、
傷が小さく済むように、と思ってな。
別にお前が誰を好きになろうが、
それがどんな女だろうが関係ない、
ただ、そのことで絶対に後悔するなよ」


―――アドバイスとしては正しかった。
夜になって、奴の家へ行って、
納豆入りの饅頭を喰わせてきた。
心配してくれたんだよな、
すまなかったな、ありがとう、
という言葉が照れくさくて言えない僕のような人間は、
そうすることしかできなかった。
頑固さ、不器用さ。
―――は、未熟であるとは知りながら、
その弱い感情が友情のようなものだと思っていた。


そしてエロ本を見せ合い、
おふくろさんの夜食をいただきながら、
一緒に映画を観た。
映画を観ながら、
お前好きな奴いんのかよ、みたいなことを聞いた。
本当の友達というのは家族みたいなものだ、
僕もやっぱり逆の立場だったら同じことをしたかも知れない。


―――噂さ、と僕は思った
噂なんて、根も葉もないものが多い。
けれどもその波瀾の予告は僕の胸を圧迫した、
蛸のように貪婪な無数の吸盤が黝く声を潜めていた。
それでも仰け反って大人を見上げる子供のように、
周囲が、少しずつ、遊園地から都会へと変わってゆく。


僕はやっぱり彼女がいた場所へと放課後、足を向けていた。
ガードレールの向こうの崖に、彼女は座っていた。
スカートを抑えたり、前髪に手をあてたりしていた。
全身の筋肉の一つ一つが強張るのを感じながら、
神秘的な雰囲気をまき散らしながら、生殖の幻覚が、
動物のように蠢き、彼女を狙っていた。


―――そんなこと、本当に関係ない、
と自分に向かって言った。
その端正な言葉にどれほどの力があるのかなど、
ちゃんとわかりながら・・・・・・。


秋が終わった海の風は冷たかったけれど、
いつまでも僕たちは座っていた。
でもそういう大人にも子供にもなりきれない痛みだけが、
自分の動作や、生き方や考え方を確かめさせてくれる。
それは指のように形の悪い黒い影を、
好きになるようなことかも知れない。
欺こうとするもの、騙そうとするものへの懐疑、
どれほどの言葉を費やしても現実は変えられない。
人を好きになるという人間的な行為の中で、
条理に合わぬ衝動が僕を支配している。
全身の毛穴が一斉に開いたような緊張を感じた。
でも親友からの言葉ははっきりと僕に自覚させた、
その時から彼女への気持ちはより強いものになった。


僕たちはいつもその場所で出会った。
自分が遠く、小さく、はるかなものに感じるための、
そういう訓練でもしているような場所で、身を逸らせては、
僕は彼女を眼球の裏や、頭蓋骨の裏、
咽喉の奥へと焼き付けようとした。


鳥が啄み、魚は鰓や鰭をぶつけ、
風は―――盲目のナイフで、身体の奥をすりぬけてゆく・・。


「また来てたのか?」
「あなたもね」
「君はここが好きなんだね」


間抜けな発言というのは、
いつも言い終わったあと、後悔する。
開いたマンホールの隙間から、
鼠が飛び出してくるようなものだ。
一体これまで、彼女の何を見てきたのかと、
問い詰められるのに等しい。


―――ただ、自分にとって、
彼女がいるこの場所が好きだったから・・・。


「好きじゃないわ、
他に行くところがないだけ」


その時の彼女の横顔は、
砂の上の材木みたいに、
あるいは胃袋が死を消化するように、
とても物悲しく見えた。


僕は左右に揺れ、
蜘蛛の巣を作ったような嫌な気分がした。
それでも彼女は、
いつもよりなお、美しく見えた。
水分を失った岩肌の貝のようであっても、
それゆえに凛としたものが残った。


その強い印象は僕の餓えのようなもので、
感覚よりも肉体の方に先に現れてきた。


「ねえあなたにとってあたしは何?
どういう存在?


それは―――告白を意味していた。
告白同前のことをしておきながら、
周囲にこれでもかとアピールしておきながら、
それでも、逡巡した。

世界が一斉に立ち上がったように感じられた、
鳥が無造作に枝に止まって剥製になる。
化石になる、長い長い旅を終える。
僕は―――僕は・・・・。



「突然そう言われると困るけど、
僕の好きな人
これからも―――いい友達でありたい」


、、、、、、、
友達でありたい。
―――自分自身を他の責任、他の態度に、
置き換えようとする卑怯な曖昧な言葉。
それは蜥蜴のように気味悪くへばりついた、
僕の劣等感だった。

、、、、、、、、、、
彼女の血相が変わった。


「あなた、あたしのこと知らないから、
そう言うのよ」
「知ってるさ」


、、、、、、 、、、、、
でもその一瞬、心が汚れた。


―――知っていても、知らないふりをしていても、
そんなこと、子供の僕には・・・・・・。


彼女は薄笑いを浮かべていた。
オレンジの切り口のようにも見えた。
嘘の、生々しい実用性に耐えられないがために、
形の整った、そういう見世物の芯が必要なのだ。


、、、、、、、、、、、、、、
無表情な言葉というのを聞いた。


「火事で両親が死んでおばさんに引き取られて―――」


首を横に振った。
彼女はおそらくいままでで一番強い調子の声を出した。
もしかしたら、学校でもそんな声を出すところなんて、
一度もなかったかも知れない。
それはある程度、自分で出したり、
引っこめたりできる性質のものだけれど、
彼女に関して、それはまったく当てはまらなかった。


「―――でも、そんなのよ」


その言葉は、僕の視界を狭めた。
親友の言葉が―――甦ってくる。
それは投げ網のように、僕の細胞に襲い掛かった。


「あたしの母さんは男を作って家を出たの、
それでノイローゼになった父は、
家に火をつけて、
小さなあたしと心中しようとしたの、
父親は死んだ、葬式にも母親は帰ってこなかった、
本当よ」


嘘ではないのだろう、
言葉のはしばしに感情的な動きがある。
それをつとめて抑え込んで話しているという印象があった。
そこにはきっと嘘も虚飾もない。
虫の音の雨のように、地の底からわきたつ存在感。


「だからおじさんが言うの、
お前は世界から必要とされていない人間なんだ、
母親はお前よりも男のことを考え、
父親はお前よりも自分のことを考えた、
そういうお前は、男に抱かれるために、
生まれているようなものだ、
お前は娼婦だって―――」


、、、 、、、、、、、、、、、、、、
その時、どんなことを思っていただろう?


僕の奥歯は噛み締めていなければ、
ガタガタいってしまったかも知れない。


その言葉は汚い大人の世界を垣間見させ、
そしてその言葉は頭痛と吐き気の見世物を、
眼蓋にちらつかせた。


「悲しいわ、
いまぐらい大人ならこんなことにはならなかったのに―――」

、、   、、
僕は―――僕は。


「小さなあたしは、
親のように信じていたおじさんの言いなりに・・・」


僕は吐いてしまいそうだった、
彼女にではない、
そのおじさんに、である。
欲望を満たすためだけに、
そんなつまらない嘘をついて、


―――彼女を傷つけて・・・。


ぽとん、と一滴の油彩だけで、
僕の心の水面に漆黒が満ちる。
そこで微妙な神経を他人行儀に見つめる。
無限に広がった闇の中を歩いているような気がする。


「そして気がついた時は、もう取り返しもつかない、
どうにでもなればいいのよ・・・・・・」


彼女は悲しい、
悲しいけれど、その美しさの理由が今ようやくわかった気がした。
電車がビルディングに直撃するような、
あるいはバスが舗道へと人を轢き殺すような、
やぶれかぶれ、破壊衝動・・・・・・。


―――それは彼女が一人だけ、
大人の世界の空気を身にまとっていたからだ。
森を迷う仔羊のいる昼の残像が垣間見せた、
電車の切っては走る窓の風景を想像させた。
背伸びではない、醜さにも通じる、無用で独特な、
人は誰しも必ずそこへと辿り着く、疲れや戸惑いを伴った、
もっと過酷な大人の論理・・・。


「ねえ、あなたに贈り物をしたいの、
眼を瞑って―――」


いわれるがまま、なすがまま、
眼を瞑った。
彼女が唇を重ねた。
眼を開けると、彼女が泣いているのがわかった。
そこには中間の表情や曖昧さのようなものが一つもなかった。

僕は諦めようとしている、
拒まれようとしている自分を感じた。
軽蔑とは違う、もっと根深いもの。
びわれて、いまにも下地が見えてしまいそうな、
何者にもなれない恥ずべき自分を感じた。
歴史や権力のことを思った。
これまで本当のところ、僕はそういうものに従ってきた。



「そんなであたしをないで」


僕は鈍感だ。
どうしてもっと、彼女の心に触れないのだろう。

、、   、、
違う―――違う。


「あたしの心はあなただけを見ていたのよ」


彼女が崖へと走っていくのが見えた、冷たい戦慄が走った、
僕は条件反射で動いた、
間に合え、崖に吸い込まれる手前で、
手を伸ばして、繋ぎ止めた。
息が上がった、めいめい勝手な方向に遣る瀬無く、
砂埃が上がった、僕は肘を擦り剥いていた。
仰向けに横たわっていた。
でも、よく間に合った、心の底からそう思った。
彼女は肩を落としていた。


「やめろよ」
「やめろよって何よ」


僕にはきっと彼女に何も言う権利はない。
ただ―――。


「―――街を出よう、
お願いだ、そんな人でなしの家に帰らないでくれ。
僕と結婚しよう、僕は、両親に頭を下げて、
せめて高校生活まで一緒に住めるように言う」


彼女の眼が、痛かった。
身じろぎできない。
彼女は僕の言葉を読み取った、
この凍り付いた絶壁で。
ロマンティックな物言いごときで、
どうにかできるようなちゃちな秤ごとではない。


次第に感覚を失ってしまいそうになる寒さに、
もう一度火を点けることはできるだろうか?


彼女は助けを求めていた、
だから僕に期待していた。


―――取り返しのつかないことがある、
これが、人生なんだ・・・。


「―――ごめんよ、僕は意気地なしなんだ、
君がそう言ってくれるまで、
僕は君のことを大切にしたい、傷つけたくない、
それでも守りたいとか綺麗ごとを並べてたんだ、
君の噂を聞いて真偽を確かめる勇気もなくて、
ただ何とか綺麗に、綺麗にしようとしてきたんだ」
「・・・・・・」
「―――強くなるよ、
でもこれだけは、言わせてくれ、
君が汚いんじゃない、汚いのはそのおじさんの方だ。
だから―――」


、、、、、、、、、、、、、、
僕は彼女の心に触れようとした。


「君の美しい心を僕にくれ、
そしてそれをこれから僕に守らせてほしい」

、、、
頼むよ、肯いてくれるまで、
ここから一歩も動かない。


「・・・・・・うん」


、、、、、、、、、、、、、
済し崩し的に持ち込んだ結果。


その日僕たちは日が暮れるまで、崖の上で抱き締めあっていた。
極度の孤独も皮膚の接触のなかで安らぎに変わった。
傍目から観ると男女の営みどころか、
不格好なコアラの模倣とか、
するめいかみたいに見えただろうけれど、
だってそれは間違っている形をしているような気がしたし、
見覚えのあるものでもこんな風に近付くと別のものに思えてくる、
けれども、血管の浮くような細い手足は本物だったし、
心臓の端正な響きも、本物だった。
その息詰まりそうな切なさを今ちゃんと掴まえておきたかった。


―――家に彼女を連れて帰ると、両親はビックリしていた。
女の気配もなかったのに、突然家に連れてくる、
その上結婚すると言う。
僕は事情を説明した。
両親は、戸惑っていたけれど、僕の決意や、彼女の境遇を憐れんで、
「お前のしたいようにするといい」と言ってくれた。


根っこは優しく、正義感があるから、
そう言ってくれると思っていた。
彼女はずっと俯いていた。
彼女のここを立ち去りたい気持ちは容易に察しがついた。
どのような理由があったって、見ず知らずの家に、
お世話になりたい人間なんていない。

、、、、 、、、、、、、、、
けれども、そんなの家じゃない。


「僕は君のことが好きなんだ、
だからどうか、迷惑だなんて思わないでくれ。
父さんや母さんだって、悪い人じゃない、
君の心に血が通っている扱いをしてくれる」


僕が彼女の肩に手を置くと、両親が優しく微笑んだ。
ここをあなたの家のように思っていいのよ、
と母親は言った。
家庭のありとあらゆる権限というのは大抵母親にある。
ただ、夕食の母親の料理のメニューが、
二三品増えていたことを、僕は見逃さなかった。
父親が、パンツの上にズボンを穿いたことも、
僕は見逃さなかった。
僕はその日の夜、彼女がお風呂に入った直後に、
父親と一緒に彼女のおばさんの家へ行った。
玄関に出てきた、彼女のおじさんをガツンと殴った。
やり返そうとしたところを―――。


刑法第百七十七条 強制性 交等罪が適応される、と父親は言った。
父親は市役所に勤めていた。
彼女のおじさんは青くなって、蛙のように跪いた。

「社会的信用も、人間性も否定される。
当たり前だ、あなたはそれほどのことをしたのだ、
このことがどういう意味を持つか、おわかりでしょうね」


とりあえず彼女をこちらの家で当分の間、預かるつもりです、
今日は帰ります、失礼と言って僕の肩を掴んで歩かせた。
もう一発殴りたいという気持ちがあったが、
それはもはや、弁えというのを知らなすぎる。
帰り道、父親にいきなり殴る奴があるか、と怒られた。
怒られたけれど、父親は笑っていた。
昔の父親は、口より手が出るタイプだったとそれとなく、
母親から聞いている。女を殴るタイプではなかったけれど、
喧嘩っ早くて、停学も喰らったことがあると聞いている。


「でも、もう一度話せ、訴えるのも一つの手だが、
人生に傷がつく」
「もう、ついてる。取り返しがつかないほどにだ」
「でも、話せ」


それから言った。

「もし私が彼女にお前の大学費用をそっくりそのまま、
彼女に差し出そう、そう言ったら諦めるか、
なんだったら彼女が結婚できる年齢まで育てた上で、
相手まで探そうじゃないか、
そう言ったらお前どうするんだ?」

無茶苦茶な取引を持ちかけてくる。
―――詐術だ、とは思った。


「いいか、物事はそんなに単純じゃない」


父親の言ったことは、残念ながら、当たった。
次の日、彼女のおじさんが僕の家にやって来て、
玄関前で土下座し、示談金を寄越してきた。
保守的で醜悪な人間の皮を被った動物の姿。
それは、彼女の父親の保険金だったのかも知れない。
彼女は、お金を受取り、もう二度とここには来ないでと言った。


受取らないという方法もあったに違いない。
けれども、彼女はこれから僕の家で当分の間生活する、
―――また僕がこれからずっと彼女の傍にいるという保証もない、
そう考えたら、そのお金は受け取らないわけにはいかなかったのだろう。


―――崖の前でのやりとりが、思い起こされ、
そしてまた父親のやくざな取引が、思い出され、
それでも、もう誰にも傷つけさせない、
これからちゃんと守るよと、
少女漫画のヒーローみたいなことを言った。


透明な陽炎を抱いているみたいな、
この希薄な現実感覚・・・・・・。
物事は好転しているのだろうか、
暗転したのだろう―――か。


でも、僕は自分の小指を切り落して、
彼女に差し出したい気がした。
過去と未来を切り落す今という現在という平面の一枚の紙の展望に、
僕はまだ歩き方のレクチャーをされているような気がした。
僕は夏の終わりの入道雲や、向日葵や、
風のないあの海に誓えばいいのだろう―――か。
でもそんなもの次々と叩き伏せられてしまうに違いなかった。
自分の言葉がどれほど頼りないか知りながら、
それでも、元気づけるために、明るくするために、
僕はたくさんの嘘をついたと思う。
澄んだ渓流のように作為のない自然な、嘘。
いつか、その嘘の一つ一つを、
本当に変えていきたいと思った。


彼女は、もう学校へは行かなかった。
学校はもう彼女にとって無用の長物であり、
隣人の仮面の場でしかなかった。
そこでは彼女が縛り付けられて、型に押し込まれてしまう。
彼女は人生の選択を始めた。
彼女が行かないなら僕も学校へは行きたくなかったけれど、
卒業証書は欲しかった。
彼女は母親にお願いして内職をし、そのお金を両親に渡した。
両親は受け取りを拒否したけれど、最終的に受け取った。
受取りながらも、お前の通帳に入れておく、と言った。
彼女は家事全般を習った。
彼女はようやく海の静物画の景色から離れようとしていた。
その曇った硝子窓の向こうにみえるものに、
生活や、人や、自分というものを懸命に作ろうとしていた。
小説の登場人物のようにけして楽ではなかった。
彼女はそれを自分に課すことで日々の糧を見つけようとした。


―――卒業証書を貰う前に、父親の口利きで、
工場の仕事が決まった。
僕は働いた、アパートを借りて彼女に一緒に住んだ。
数年後に仕事を辞める間に資格をいくつか取り、
また違う会社へ就職した。
もっと給料が欲しかったからだ。
彼女のお腹には新しい命が宿っていて、
僕はその笑顔にゆっくりと吸い取られ、消えていく、
そこで自分の夢を忘れた、けれども自由が残った、
かたく口を噤んで、過去のことを喋らないでいるだろう、
何もしなければ、どうなっていただろう、
擦れ違っては次第に距離を拡げていく人と人の中で、
それでもお互いが寄り添う人生がある、
俗論と偏見のなかではつまらないものだと思う、
でもそんな平凡な人生を心の底から愛そうと本当に思った。


   、、、、
―――海は広い。