koichang’s blog

詩のノーベル賞を目指す、本を出さない、自由な詩人。

弁当屋の話







弁当屋では、
大型店でない限り接客と調理の両方を行う。
接客はオーダー取りから電話注文の対応、
レジ、出来上がった弁当を袋に詰めてお客様に渡す。

とはいえ、ベルトコンベアーで流れて来る容器に、
食品を詰めていくのとは違う、
弁当屋のメニューは、定番、季節限定など、数が多いため、
慣れるまで覚えるのは大変だ。
場合によっては六十種類ということもあるらしい。
ちなみに、弁当をイラストの図にして描くと覚えやすいらしい。
それでも覚えられない場合は、写真に取って眺めるとか、
メモ付きの一覧表を作るなどの対策がある。
やりやすいようにさせてあげられる環境づくりがあれば、
調理スペースに写真付きでマニュアル作成すればいい。
プロなんかいらないのだ。
より多くの人が働けるし、みんなが楽しく過ごせる。
人それぞれ、向き不向きはあるけれど、
慣れない内は誰でもそういうことをするものだ。

大人になると、あるいは経験を積むと、
「何でそんなに頑張る必要があったんだろう」
と思うことはある。
中には口の悪い人の真似をして、
そっくりそのまま「嫌な奴になる人」もいる、
立場や肩書でやたらと仕切りたがる、
「駄目な人間」もいる。

たとえば「本業で受ける辛さ」と、
「副業で受ける辛さ」は耐えなきゃいけないレベルが違う。
我慢しろとか、大人になれよとか言っているわけじゃない。
論理的に物を考える癖をつけないといけないと言っているのだ。
「十代で受ける仕事の辛さ」と、
「二十代で受ける仕事の辛さ」は違ってくる。
「三十代で受ける仕事の辛さ」は僕にはない。
雲泥の差だ。
もちろん家族がいて、生活費を稼いで生きている以上は、
もちろん急にこんな仕事やってられるか、とは言えないわけだけど、
スッと肩の力の抜ける時期があるし、
悩み事に対する捉え方も優しくなったり、緩くなる。

さて弁当屋での調理担当は具材カットなどの仕込み、おかずの調理、
炊飯、盛り付けなどが主な仕事。
火を使う調理も多く、炒め物や揚げ物などを担当することもある。
清掃やゴミ出しなど、店内を衛生的に保つのも重要な仕事だ。
デリバリーもしているなら、
原付に乗って安全運転してお客様の元へ向かう。

でも五百円の弁当が千円の値段になった瞬間に、
人はそれをまったく買わなくなる。
(消費者の心理的抵抗だ、)
もちろん食中毒なんか一度でも起こしたら言い訳はきかない、
その店が潰れても文句をいえない。
風評被害はどんなクレームよりも恐ろしい、)
たとえば、弁当屋には、
店舗型と無店舗型(デリバリー)とキッチンカー型がある。
(とは言いつつ、催事専門の弁当とか、
会議用弁当とかいうのもある、)
僕はずっと前にテレビで、
自分で材料を仕入れて、弁当を作り、
オフィス街に飛び込みで弁当を販売している人を見たことがある。
値段もかなり安かったはずだ。
それで儲けを出すことを常に頭に入れている。
しかしそういう人が出した店でも潰れることはある。
マネーの虎もみんなすごい人生を送っている。
エキスパートなんかいらないのだ。

僕は三度ほど飲食店で虫を見たことがある。
その内の二度は指摘しなかったが、
一度は奥さんが口を出した。
僕は奥さんに「飲食店は虫との闘いなんだ」と、
僕の持ちうる知識で説得したことがある。
それが正しいのかというと僕は甘いだろう、
でもヤクザの紛いごとをしたいわけじゃない。
ただ、そういうたった一度の失敗で、
色んなことを失ってしまうのが世の中というものなのだ。

僕はたまに弁当屋で注文したあと、
椅子によっこらせ腰かけながら、
人の人生というものについてぼんやり想い馳せる。
僕も浮世の苦労を色々舐めてきた、
だから色んな考え方を学ぶ。
たとえば詐欺に騙されるのは専業主婦や老人など、
一方的に消費する立場の者が多い。
そして人を信じる人は、論理的に物を考えられない人だ。

僕は詩人だけれど、WEBライティングの本を読む。
コピーライティングの本も読む。
レトリック関連の本も読む。
論文だって読む。
多分そういうことをする人は専門家だろう。
はっきり言って僕の仕事と一切関係がない、使うあてもない。
けれど欲しい情報は一つじゃない、常にそうだ。
だから特許の手続きの本を読んだし、株やFXの本も読んだ。
何でかっていったら、僕は必死だからだ。
いい加減な人間は何をしても絶対にモノにならないと知っているからだ。
でもみんな沢山苦労したいわけじゃない、
ちょっとしんどいことがあると投げ出したい人がいる。
現実から眼を背けたい人もいる。
嘘で飼い慣らされて自分を胡麻化すしか能のない人もいる。
とある料理家はレストランで修業中に頭から血が出るような暴行を受けた、
間違いなく傷害沙汰だ、
でも、教えてもらっている側だからそれを我慢した。
何が正しいのかは僕にもわからない、
けれど、その人は素晴らしい料理人になった。
日向の見晴らしのいい景色のある窓のある喫茶店
おあつらえ向きにいえば隣の芝生も美しいなんていうことは、
はなから期待しない方がいい。

僕は自分の同業者に一ミリも期待しない。
あなたもきっとそうなって欲しいと思う。
どうしようもない国の、
どうしようもない詩の出版社の、
どうしようもない詩人たちの世界で、
普通やマトモであることに比べたら、
何をしたってお釣りがくる。
あと、この国には屑があふれている。

「あなたは弁当を美味しく食べる」ことはできても、
弁当屋の知識」については一つもないのだ。

もしかしたら居ぬき物件で安く抑えるとか、中古調理器具サイトなんかを、
見たことがないのかも知れない。
五〇〇万から一〇〇〇万ほどが目安とかも知らないのかも知れない。
幼稚園弁当とか、介護施設弁当とかも知らないのかも知れない。
これからの時代、狙いを定めて儲けを得ていくパターンが成功をおさめる。
もちろん儲けを得るには、営業力も必要だ。
人と違うっていうのを楽しんでいる人もいる。
もう一つステージが上がったら人と違うことで労りが増えてくる。
どんな考え方にも段階があり、そこにおける状況と選択がある。
想像力は万里の長城を越える。
月の長い距離も一瞬にする。

弁当屋は揚げ物には四分、
トンカツは六分揚げ解けば問題ないと聞いたことがある。
ただ、僕はとあるファーストフード店でかつ丼を食べた時に、
つくづく思ったことがある。
人がいない時のかつ丼は美味い。
丁寧に、時間配分を考えて、するべきことをしているからだ。
正確かつスピーディにこなせれば問題ないと思ってる人もいる。
嘘だ、味が全然違って僕はビックリした。
他にも、慌てていたり、忙しいと思われた時は帰った方がいい。
ベストでないものを食べるぐらいなら自分で作った方が美味しい。
とある名店の味と称した洋食屋さんに行った時、
嘘偽りなく、僕が作ったトンカツの方が美味かった。
「そんなことあるかって思う人」は世の中を全然知らない、
「そんなこともあるだろうって思う人」になろう。

年間を通して、様々なメニューを調理するので、
食材や調理方法に詳しくなるというメリットがある。
「女性でも料理ができない人」がいる時代に、
「(だからこそ)女性でも料理ができる人」というウリができる、
これはどう考えたってありがたいことだ。
人が飲食店へ行くのは何故だろう、
自分で作れる料理を食べるのは何故だろう、
「面倒くさい」からだ、
「(だからこそ)面倒くさがらない人に需要がある」のだ。
とあるラーメン屋では客が来てテイクアウトをしたいと言ったら、
断っていたのを一度見たことがある。
そしてその言い方というのがすさまじかったのだ。
僕はその瞬間、この店は潰れるなと申し訳ないけれど思った。
人って正直だ。

崎陽軒の「シウマイ弁当」は一日に約二万三〇〇〇個!
まったく意味がわからん、正直な意見だ。すごいってことだ。
鳥取和牛のギガ盛りで二十九万弁当というのがある。
まったく意味がわからん、みんなそう思う、すごいってことだ。
子供の頃に食べた弁当のことをふっと思い出す、
いっぱしの野球少年だった僕は、
グラウンドの隅に、汚い雨よけみたいな屋根付きのところがあって、
そこで、弁当を食べたことを思い出す。

美味しいとか不味いとかでは単純に割り切れないものがある、
そこでの匂いとか、懐かしさとか、優しさとかいうものは、
―――死角を作り出す。

全然関係ないけれど、
チェーン店の弁当屋でも味が違うことがある。
もちろん同じように作っているはずだし、
そんなこと説明上は起こりうるはずがないのだ。
けれど、何故かすごく美味しいと思う。
別にそれをして、「〇〇弁当の味きき」をしますよ、
とかいうことではなくて、
ごくごく純粋に本当にそう思えたのだ。

その時に店がせせこましくなくて綺麗だったし、
接客もよかった。
あと、何となく店の雰囲気がいいなというのを思った。
この何となくが実は一番ポイントが高い。
そればっかりは、僕の感性における経験上、
作れる類のものではないからだ。
だから本当はありとあらゆることそこを目指さなければいけない。
美味しい弁当屋というのとは違うかも知れないけど、
いい弁当屋っていうのは僕の経験上そういうものだ。