「虚無村にいるのだろうか―――」
と、その手紙はこう始まっていた。
息詰まるような、魔法にかけられたような、
人類が月面にその第一歩を踏み出した瞬間さながらに―――。
その虚無村の旅館にいる。
ガイドブックには絶対に載らないような、煎餅のような、
生木の薄いバラック旅館の一階―――。
民俗学の大先輩から招集をかけられて都合がつかず、
断りを入れるつもりが、その民俗学の大先輩が行方不明になっていた。
はるばるやって来たのにはこういった経緯がある。
とは言いながら緊迫感は一切ない。
案内された部屋の座卓には、
お馴染みの茶筒に入った茶葉や急須、湯呑茶碗、
電気ポットが用意されていた。
大して食べたくもならない和菓子が、旅館では必須アイテムであり、
祭りだって浴衣を着ないのに着てしまう。
ひとっ風呂を浴びて、早い昼食をいただいた・・。
―――その時に、女将から大事な手紙だから、
直接渡してほしいと頼まれた、というものを受け取る・・・・・。
名前を見てすぐに気付いた、その民俗学の大先輩からの手紙だった。
そんなものがあるならすぐ渡せという感じもしたが、
行方不明と関連があるのかと礼を言い、読み始めた。
読み始めて大学でのことや民俗学、政治のことなどの世間話をしている。
俳句さえあった。老境を嬉々として語るような冗長な文体。
それはそれでいいのだが、らしくはなかった。
聡明な人で、慧眼だった。百メートル離れていても視認し、
苦も無く後ろから追いついてくる体力のある人だった。
妖怪みたいな人だった。
角がとれるのはいいのだが、それでは別人である。
ついにボケたかなあこの人と思いながら訝しんでいたら、
謎の数字と英語が末尾にあって、ハッと気づいて思考を巡らせて笑った。
大学時代にいざという時に決められていた暗号だ。
数字と英語をとある法則のもとにすると、
海岸の巨大な石、木の隣、砂に埋める、とあった。
新幹線や電車、バス、さらには徒歩で朝から半日ということを考えると、
すばらしい収穫だ。
そして無事、本当の手紙を受け取った。
手紙は先程のものとは大きく異なっていた。
浴衣姿のまま、瓶に入れられていた封筒を破って、
木に腰かけて中の便箋を読む。
「ここでは郵便配達員も、警察官も信用できない。
だからこういった対策をするのだが、君が村に来て、
この手紙を読んでいるという場合、私はもう死んでいる。
そして君には、危機が迫っていることを伝えたい。
この村は、民俗学的に見て、素晴らしい土地だ。
電話回線すらない。外部からの侵入者を極端に拒むように、
山脈があり、海岸に面する静かな村。
文明から取り残されているがゆえに民俗学的資料が残されている。
図書館や資料館こそないが役場には集積されていた。
だが文献を読み漁る内に、他とは違う因習も残ることがわかった。
その一つが生贄だ。生贄といっても通常は動物を使用する。
呪物や人形などの形跡が残る“祀神社”
そして森の奥の小屋で行われた“神台場”
そして海の傍には大きな石“穢れ台”
村の最北端に位置する河童伝説も伝わる洞窟の“隠れ洞窟”
そして最後に山頂付近にある湖の“神郷湖”
付記した地図で五芒星となっているのがわかると思う。
この五芒星の中心位置に位置するのが、役場だ」
波の音が遠くなっ―――た。
民俗学の大先輩の声が聞こえた気がした。
ポテトチップスの中にスルメやゼリーでも入っていたような気色悪さ。
身体の中を、何かよくわからぬ、ある感慨が風のようにすぎた。
それは丁度、断崖の上で、一人で海を見ながら感じる眩暈のようだった。
「われわれ民俗学チームは全員で五人いた。
嬉々として、村を散策して回った。
そして僅か二日で、一人が消えた。
何処かで遊んでいるんじゃないか、アイツはクビだと笑っている間に、
一週間が経った、私以外の者はみんな消えていた。
警察に行った。だが、警察は神隠しといって話を聞かない。
それに、ずっと人の視線を感じる。
そして役場の庭に新しい樹が植えられた。
四本、だ」
人を探すような声が遠くから聞こえてきた。
その声の中には女将の声も混じっていた。
逃げ場など何処かにあるのだろうか、という気がした。
山脈へ? 土地の利もないのに。
海へ? それこそ、思う壺だ。
神話的、形而上学的、実証的という三段階を経て、
知識が進歩するとするカントの実証哲学の考えをふと思った。
幼児性における精神の磁石の針。
だらしなく身をよじり、地団駄を踏む。
フィルムを逆に回した風景の波紋。
防御や攻撃でもない、動物的習性の待機状態・・。
ゆらゆらと揺れ動いているそんな水飴のような深い川を想った。
平行調の音符。
―――こういう新しいルールに従わなければならないのだろう。
「わたしは君が探しに来ることがわかっていた。
すまない、私はどうしても研究を続けたかった。
四人が消え、四本の樹が植えられたのを確認した時点で、
村長と交渉をした。私は勝ち取った、正式な村人となる代わりに、
次の生贄を指名した。君は私の代わりに死ななくてはならないのだ。
悪く思わないでくれ、研究のためなら人の魂も売るものなのだ」
―――手紙を握りつぶし、村長を懐柔することはできるだろう、か。
モザイク模様に無限に広がる昼下がりの海。
ほとんど狂信的な信念を声明している。
法という鎖のタブーから解放された獣のような村。神隠し。
口をパカッと開けたらムンクの叫びだろうか、
それとも、水木しげるの漫画の始まりだろうか。
やられたらやり返す、どうせなら老いぼれよりも、
若い方がよろしくはないですか。あるいは、一人受け入れたなら、
二人受け入れようじゃありません―――か、
なに、殺す奴なら星の数ほどいます。
そうです、電話回線を入れましょう、インターネット回線を。
もっと計画的に人を殺しましょう。
村のしきたりを守りながら、今後もずっと永続的に続く村の生贄の儀式を、
現代的なものにするんです。いい考えでしょう。
こういうのは一人より二人の方がいいんです。
不備がなければ、破綻が少なくなります。
それに子供を作り増やしましょう、そうすれば村人は根を下ろさざるを得ない。
こんなこと十年や二十年後に続くものでしょう―――か。
五十年や百年、長ければまだまだ先があります。
多角経営の時代です・・・・・・。
―――僕も研究に命を費やしたい人間、そんな人間は価値があります、
いいえ、きっとあなた方は最初からそのつもりだったんだ。
来るかどうかもわからない人間のために手紙を用意したのは何故、
壜の手紙を探し当てる前に尾行もしなかったのは何故、
わざと泳がせ、状況を理解させ、どう転ぶのか見ていたから。
普通に話せば生贄にするしかない、普通は、ね。
生命の根本は苦悶で満ちている、だから人同士で争うんです。
そうですね、僕はこんなことぐらいでガタガタぬかしやしませんよ。
揮発の匂い。効き目はモルヒネより迅速ですね。
美しければ美しいほど、笑ってしまう。それが空虚で、
中身が空っぽのものだとわかっていながら、
それでも人は見た目を重視する生き物だと知っているから、です。
賽は投げられた。けれど、僕が用意できるものはもっと大きい。
、、、、、、 、、 、、、、、、
そうでしょう、村長、いいえ大先輩。
今日はめでたい夜です、存分に酒を酌み交わしましょう、
豁然と地形が開け、道ができあがってゆく青写真を見て下さい。
新しい村の出発です・・・。