朝の訪れを待つだけ
―――そこは心霊スポットだった、
判断が遅い、
間髪入れられず答えられない―――。
カラン。
ビュウウウウ、と喫茶店のドアが開く。
“何か”を―――考えていたような気がする、
だが、それは一体どういう、
どういう“何か”であったのか・・・・・・。
でもその時はまだIさんは知らなかった、
どころか、そもそも心霊スポットだと、
思って撮ったわけでもない写真が、
この話のきっかけだったりする。
その弾力の深い余韻を、耳の穴の中にハッキリと引き残していた。
それがいつとなく―――イツになく、喫茶店の物音を、
根こそぎ、消え薄れさせていって・・・・・・。
そこいら中が別空間や、新天地のように、
ヒッソリと、静まり返ってしまった―――しまったのだ・・。
胸の動悸が見る見るうちに―――高まった。
早鐘をつくように、乱れ始めた・・・・・・。
それにしても、とIさんの眼を見る。
―――自閉症の人のように、よく動く眼だ。
不衛生―――大腸菌・・・・・・。
・・・・・・たった一つの個室便所を残して、
それ以外に人がいた、
人がいることは、不思議ではない、
トイレに人がいてはいけない、という法律は存在しない。
緑色のレーザーとカメラで、
行為を終えた便器のその瞬間を撮影し可視化したところ、
肉眼では見えない飛沫(エアロゾル粒子)が、
便器から盛大に跳ね上がっているみたいに。
天井に子供の落書きのような悪戯があった、
クレヨンでピカソらしく書いた画用紙ならば可愛いが、
真夜中のトイレでは不気味だし、
しかし、昼間ならば味わいがあるのかもしれない。
けれども、こうして―――こうして冷静に、
子供が届くわけもない、梯子がいるとわかると、
キチガイだろう、と思う。
ヤンキーは壁にやっても、天井までやらない。
トイレの隅は苔生している、掃除が行き届いていない、
また、赤い三角コーン、
サインポール(のようなもの、)
それからカプセルトイの球形も転がっていた。
空間的にはかなり苦しい、不自由な感じに見え、
何よりもペースが狂わせられる、
感情のルールが狂ってゆく・・・・・・。
小便器に立っている人間はまるで死んでいるみたいに、動かない。
あの電気のコードを縛るのに使う、ツイスト・タイみたいに見えた。
一様に、くの字に俯いて曲がりながら、立っていた。
また皆、白装束の格好をしている。
―――白装束の格好をしていてもいい、と思う。
常識は―――そう思う、言い聞かせる、囁きかける。
ただ、空いているのは個室の一つだけ。
後は使用中・・・・・・。
(後は―――真夜中・・・・・・)
常識が揺らぐと、白装束では困る、ツイスト・タイでは困る、
くの字に俯いて曲がりながら立っていられると困る。
―――だっテ・・・・・・。
こんなこと―――。
こんなこと―――本当にあるダロウか・・・・・・。
何だこいつら、と思いながら、それを口にするわけにもいかない。
蛞蝓や蜈蚣が大量発生したように気持ち悪いので、
用を足さずに出て、誰かが出てくるのを待つ。
その晩はあまり暗くなく、
むしろ明るいぐらいの真夜中。
数分ほど待ってみたが、誰も出てこない。
えと―――何と言おうか・・・・・・。
ええと、つまり、こういうことだ、
『見せられない写真』とは―――、
つまり『見せてもらっていない写真』だから、
、、、、
なのだが―――。
実はその時にスマホで写真を撮った。
何かの記念のつもりだった。
その時は“よくないもの”は写っていなかった。
痺れを切らして、我慢する必要はない、
もうさっさと出すもん出そうと、
トイレへ入ってみると、人が消えていた。
―――もぬけのから。
足下にラバーカップや、緩衝器包材が落ちている。
ゴキブリも出てきて、軽いパニックになる。
描写的、観察者的、というような要素が―――と思った。
バンバン、と音がした。
最初は、裁判官が「静粛に!」と言いながら叩くガベルみたいな物音で、
これが世に聞くラップ音かと思いながら―――悠長に思いながら、
駐車場の方だ、と気付く。
そうだこんなところにいてはいけないという知らせだ、
そう都合のいいように解釈して現実から眼を逸らそうとした。
物事の見かけの存在を作るこの瞬間の連続の下で、
物事は絶えず修正され、変わり続けている。
心安らぐオアシス、缶ビールの一杯、酒の肴、退屈な窓の向こう。
―――しかしそれさえ思い出せない、
だから尿意のことなどもう考えている暇もない。
尿意というのは引っ込むものではないが、忘れてしまうことはある。
人はあまりに驚くと本当にそうなるのだ。
―――自分の車に悪戯をしているのかと思ったが、声は出せなかった。
音がそこからしていた。
一定のリズムを刻むこの音は、一歩一歩、
進んではいけない領域へと足を進めるようで偏頭痛を引き起こす。
バンバンバンバン、音がした。
キーン、と耳鳴りがする。
眼を見開きながら狂気の現場を目撃する。
カルト宗教の信者といういでたちの、白装束。
怖くて近寄れない。
バンバンバンバンと音がする。
キャウン、と自分の背後から犬の鳴き声がした。
―――でも、犬はいなかった。
実際、Iさんも驚いたぐらいだ。
けれどもその犬の鳴き声を合図に、バッと数人の人間達が振り向く。
シンクロナイズドスイミングのような抜群の連帯感で、振り向いた。
心臓が矢でも射抜かれたように止まり、慌ただしく鳴る。
―――おしろいでも塗ったような、無表情の真っ白い顔。
Iさんは公衆便所のことも見間違いだと思っていた、
(それに、ユーチューバーが世界十二カ国の、
公衆便所をレポートした話の方が面白い、
色々な形がある)
疲れている、と言い訳して納得することもできたという。
(そんなものは、男ではない、)
だって、Iさんは信じない種類の人だった。
(どんな苦難があっても、ジッと堪えろ、
それが男だ、)
Iさんを暗示的に指差す正体不明の連中。
何故?
わからない、けれども、先程トイレにいた、
ツイスト・タイの連中は、近寄ってくる。
だって―――外にいる!
まるで歩きスマホをしながら追いかけてくるみたいなそぶりなのに、
凸レンズが透いている。
手が震え、背筋に寒気が走った。
「追いつかれる」のが怖い、
「追い掛けられる」のが怖い・・・・・・。
すう―――っと、気が遠くなりそうな感覚のあと、
逃げなければいけない、と思った。
瞳孔がゴムのような弾みを持ち、身体は次動作。
Iさんは、泣きたい気持ちのまま、一度転び、
すぐさま起き上がり、走った。
そこからトライアスロンのような追いかけっこが始まった。
蜘蛛の糸のように後を引いて流れる、道。
真空吸引式トイレのような気持ちになる、終わりのない、道。
街燈はあるとはいえ、車がこんな時に限って全然ない。
峠道だから、起伏があるし、地味に、しんどい。
秋とはいえ、峠の道は冷え込む。
平手打ちしながら吹きすぎていく、風。
軽装で最初は寒いと思ったが、すぐに汗に変わった。
でも追いかけてくる。多少走れば何とかなるという算段は思ったが、
いくら走っても、どんなに逃げても追い掛けてくる、
仮想現実のようなそれは、身に覚えがあった。
抗うことが出来ない恐怖、社会的なコードを持たない別世界、
棘のように引っ掛かるもの、魚の骨、バベルの塔の言語的不一致。
―――怖い夢の記憶。
気が付くと、不気味なトンネルに差し掛かっている。
壮大な山の頁を捲る、という気がする。
トンネルのオレンジ色の光は、さながらゆらめき進む燐の軌跡だ。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、
古代エジプトの神殿地下の巨大トンネル、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
マサチューセッツ州西部にある鉄道トンネル、
生臭い臭いと共にベタベタするような湿気交じりの空気を嗅ぐ、
温度が違う。冷たい。
もう何かが起こるといわんばかりの雰囲気にIさんは、
途中から思い出された溶鉱炉みたいにぐらぐらした尿意を堪えきれずに、
チャックを下ろしてぶちまけながら走った。
冷静に考えるとどうみてもギャグだが、
だって、蠅取り紙にくっついた蠅の足。
本人にいたると、漏らすのはどうしても嫌だったし、
かといって立ち止まって悠長にそんなことをしている時間もない。
“何か”を―――考えていたような気がする、
だが、それは一体どういう、
どういう“何か”であったのか・・・・・・。
重要なこと・・・・・・は、
信頼できることは・・・・・・は、
背後からはやはり迫ってくる。
トンネルを進んだ。
「おーい助けてくれー」と叫んでみる。
「おーい、おーい、おーい」と向こう側へと反響する。
バンバンバン、と音がする。
キュイイインという音がする。
気持ち悪い、こわい、しかしそれでも立ち止まるわけにはいかない、
足音がする。
また、何かぶつぶつ言いながら近寄ってくるのが聞こえる。
―――Iさんは言い訳する、
違うんだ、それがまた不協和音で、耳障りで、
鼠の鳴き声のような印象。
「おーい」
走った。
藁にもすがるとは今まさにこの時のこと、走った。
その時「おーい」と向こうから声がした。
―――ひと筋の光が射した。
やった、助けだ、ここらあたりに住んでいる人だろうか。
心細かった、寄る辺なかった。
もうその存在だけで、すべてが満たされるような気がした。
一度覚えたら意識的な行動を行わなくても実行できるような、
無意識的水準で行われる判断基準。
たとえば給料日。
たとえば好きな野球のチームが勝った日。
人影が見えてくる。
後少し、見えてくる。
眼と鼻の先。
しどろもどろで何しているんだと思われたかもしれない、
とにかくIさんは身に起こった怪奇をそのまま伝えようとした。
リリーフランキーやみうらじゅんのように、伝えようとした。
タス―――けて、と言おうとした。
―――でもそれは、
もう一人の自分だった。
絶叫した。
わけがわからなくて、絶叫した。
条理は埃のように乾いていて、
おのずから違った範疇に属する。
ぼとぼとぼと、と音がした。
もう一人の自分の頭の上に大量のアマガエルが落ちてくる。
笑い声が聞こえた。
Iさんは、背後からバンバンと音がしているもの、
キュイインという音がしているものに気付いた。
それは自分の車だった。
車内には白装束が満員電車のようなこみ具合でいた。
飽和状態になるほどの無数の力が多層的に放り込まれ、
重ねられ、それらがせめぎあっている眩暈のするような闇の庇護。
真夏の猫にたかっていた、蛆虫のようにも見えた。
あるいは、甲虫の幼虫に襲い掛かっている蜂にも見えた。
エントロピー。
エントロピー。
一番重要なこと。
、、、、 、、、、、、、、、、、、、
運転手は、さらにもう一人の自分だった。
(だと思われる、とIさんは言った)
ばっこーん、と先程の自分を吹き飛ばした。
ははははははははは、と笑い声が聞こえた。
キャウン、と犬の鳴き声がした。
そこではっきりとIさんの意識は途切れた。
失神したのは生まれて初めてだと言う。
―――Iさんは、眼を開けると、
運転席にいた。
トンネルの中にいた。
何故か、ズボンをはいていなかった。
[自我忘失]―――。
気が遠くなっていて、驚きはなかった。
それでも。
コンコン、ビクウと脊髄反射する。
窓をノックする。
言葉がまったく出てこなかった。
病的な固着の感触。
この時、Iさんは軽い失語症にかかっていた。
パトカーの明滅灯が見え、
警察官が、もう一度窓をノックする、
「大丈夫ですか?」と言う。
Iさんは憔悴しきって、事故の説明もできなかったが、
その時の警察官の眼は、
角膜が盛りあがったような暗い色をしていたらしい。
あれか、とでも思ったらしい。
世界にはいつも隠された病棟というものがある、
そこに百鬼夜行だとか魑魅魍魎のようなものが巣食う。
それに対する知識は残念ながら我々には、ないのだ。
Iさんはトンネルの中で事故を起こしたものの、
幸い、無傷だった。レッカー車で運ばれていったが、
車のパンパ―がへこんでいるとはいえ、
(車には、蹴ったような傷はなく、
トンネルをこすったような跡だけだった、)
走れないわけではなかった。
Iさんは、車を運転できなかったし、
また―――それ以降、車を運転できなくなった。
公衆便所やトンネルには絶対に入れなくなった。
トイレはコンビニを使うのが鉄則。
Iさんはつい先日、地下鉄にえいやと試しに乗ってみたらしい、
チャレンジャーだと思う。
人間の中には、みずから極限に向かうと同時に、
この極限を拒絶することをやめない、という人がいる。
けれども、あの日の記憶がフラッシュバックして、
アル中や麻薬中毒者の禁断症状のように膝がガクガクと震えて、
まともに歩くことさえ出来なかった。
心療内科にも通っていると言った。
スマホの写真には、はっきりと、
一連の出来事をさししめすような、
“よくないもの”が写っていた。
すぐに消した。
何が写っていたのかとIさんに聞くと、固く口を閉ざした。
教えてほしいと言うと、本気で怒ってくる。
それには身に覚えがある、人間は取り繕おうとする。
だからそれは動物的な反射神経だ。
―――点を幾つも重ねて線になる、
Iさんは隠したい、何かを、そう思った。
Iさんが、振り上げた腕―――その左の手の甲に、
犬の顔のような魚の目が見えた。
それは魔物の眼のようにも見えなくはなかった。
Iさんは保健所に勤めている、という話を自分は思い出した。
話の大筋とは関係ないが、喫茶店には、
ぶつぶつ喋っているおじさんがいて、なるほど、
彼の中ではすべてとても自然な行為なのだろうという気がした。
Iさんが、怯えた小動物のような瞳をしてこちらをうかがっていた。
スクープは文春砲という言葉になぞらえて新潮砲というのもあるらしい、
健全な萌芽などのぞむべくもなく、
自然に清算し排泄する、愚か者たちの戦争的な比喩。
浮気の話に、不倫の話、誰かが傷ついて、
そのことをジャーナリズムみたいに叩く、
もっともっと傷つく、それが世の中ですか、と思う。
あーそうですか、と思う。
それがお前等のいうところのルサンチマンで、生贄で、
他人の腹をまさぐって平気な顔をしてる、
偽善者のハラグロ野郎。
テロリスト、国籍剥奪者、
カウンターカルチャリスト、ネオファシスト、
パンクな革命家、自暴自棄、単なるならず者・・・。
嫌悪感、敵対視する感情は醸成される、否、洗脳が始まる、
あなたはそう思いますよね、こんなこと間違ってますよね、
そんな言い方をしながら毒を垂れ流す、
―――積み木をまき散らした精神年齢の低い連中・・。
、、、、、、、、、、、、、
滑り台はあっちですよお子様!
自分は何もかも知っているというそぶりをやめて、
お仕事がんばってくださいね、
忙しいのにありがとうございました、
と頭の中の社交辞令スイッチを入れた。
―――どうしても前に進めない道がある、
でもそれが正解なのだ、けれど進めない、
その横に進める道がある、
それはつまり、何かがある道なのだ、
迷うかも知れないと知りながら、
『何かがある道』へと進んでゆき、
『ただ無理だという道』を拒んでゆく、
そんな夢を見た、
―――夢は時折、事実を語る・・。
僕は夢の記憶を判然と覚えながら書く。
おそらく―――長期休暇をしているか、
退職も念頭に入れているのだろうな、と思った。
さしづめ、理性論者なら、
幻想の舞台装置は良心であった、というわけだ。
組み合わせの難しい二つの感情だけれど、混ざれば、
灰色やグレイ、時には透明にもなる。
オパールには邪悪が宿るとか、
黒い蝶は家族の死の報せとか、
それは大抵のところ、嘘だ。
でも、それがまったく起こらなかったということにはならない、
視点が固定されている洗脳者は違う色だって見える。
イギリスのマクドナルドではポイ捨てがひどいので、
ドライブスルーを利用した車のナンバーを印刷する、
というアイディアを試案している。
けれど、これだと、マクドナルドからバーガーキングへ行く。
だからすべてのファースドフードがそうすべきだと思うが、
その為にはさらに、もっと、時間がかかる。
企業にやらせるよりも、国家にやらせた方が早い、
そんなことを思った・・・。
こうすべきなんだ―――と、
わかっているんだけどね―――は、全然違う。
―――ガレとルヴェリエが新惑星を発見できた理由は、
単なる幸運ではなく、誤差が一度以内という驚異的な精度の予測と、
惑星とそのほかの恒星の動きを見分ける観測技術の高さによるもの。
(時々には、そういう文章の在り方を呪いたくもなるんだ、)
古時計という寂びた機械だけが遠く見えるような一瞬、
Iさんが、少しほっとしたように微笑んだ。
知らなくていいんだ。
書かなくていいんだ。
喫茶店の窓から雨が見える、
どんなに怖い話を聞いても最後はやっぱり悲しい気持ちが残る、
それでいいじゃないか、それが棺桶に片脚突っ込むってことだろ、
―――誰かにそんなことを言いたいような気がした、
その日の酒は不味かった。
「けして、あなたが見た白装束は、
外科医のイメージなんでしょ、なんて思ったりしなかった―――」
独り言を言う。
自分もまた、ぶつぶつおじさんというわけだ。
個人で勝負しても欲望を満たせない日々を過ごし、
大日本人―――と大日本帝国の齟齬・・。
自尊心は屈折して、内面化し、共感し、拡散する。
気持ち悪い、何だこいつ、そして―――ふりだしに戻る・・。
ああ―――寒い・・・・・・。
アア―――サムイ・・・・・・・。