koichang’s blog

詩のノーベル賞を目指す、本を出さない、自由な詩人。

インド







十八世紀のインドは世界で最も発展していた地域の一つだった。
インドは肥沃な土地と大きな人口を持っていて、
(主に北側に人口が多い。
それは世界最大規模の農地を持っていることと関係がある、)
ヨーロッパやアフリカ、中東、
東アジアを結ぶ大きな貿易の拠点としても活動していたから、
事実上自給自足が可能だった。
そしてその考えはインド的ともいえる。

インドというのは貧富の差が激しく、水道がないところもある。
発展している所は先進国並みだが、
逆に先進国のような考えになるにはまだまだ先のことだし、
まずインドというのは土着的な一族的な考えというのがあり、
インド自体が古い考えに縛られているという見方もあるが、
いまでもインドにはドアを開ける係という仕事が存在するし、
それはその一族から選ぶのが通例で、信用看板となり責任を負う。
これを外部からどうにかしようというのは無理だし、
インドという国の文化を考える上でもある程度の理解が必要だ。
冗談半分の理解でも、インド人は嘘をつくものだと考え、
コロコロ意見が変わる人だなと思っていた方がいいということ。

さて、南にはインド洋があり、南西のアラビア海と南東のベンガル湾に挟まれ、
西はパキスタン、北東は中国とネパールとブータン
東はバングラデシュミャンマーと地境になっている。
インド洋ではスリランカモルディブが近くにあり、
アンダマン・ニコバル諸島では、
タイとインドネシアとの間に海上の国境がある。

インド亜大陸の歴史は紀元前三千年紀のインダス文明に遡る。
その時代において数々の最古の聖典ヒンドゥー教としてまとまり、
紀元前一千年には、カーストに基づく身分制度が現れ、
仏教とジャイナ教が起こった。

そういえばインドの教科書から進化論や元素周期表が突然削除され、
四五〇〇人以上の科学者や教師が反対を表明していた。
実はこれにも宗教圧力的な要素がある。

ところで古代インドでは、「ヴァルナ」と呼ばれる、
身分についての観念が広まっていた
ヴァルナによって、人々の身分・階級は厳密に分けられた。

最上位は、複雑で厳密な祭式を執り行う司祭者「バラモン
その下に、王侯・武士。
続いて、農牧民や商人などの平民。
さらに、征服された人々からなる隷属民。
最下位には、「不可触民」と呼ばれる人達。
これが、後の「カースト制度」につながっていく。
そしてカースト制度はインドの歴史と深く関わるもので、
IT大国、その前提にある基礎学習の完了をさせようという動き、
そういう様々なものが絡み合ってようやく突破口が開けた、
そういう一面も鑑みなければならない。

そして仏教もまたそういうカースト制度すなわちヴァルナを、
よく思っていなかった人達に大きく受け入れられたという土壌がある。
半分だけが光が当たっているということはなく、
もう半分が暗闇だということもない。

いわずもがなだが、インドはイギリス支配を受けていた。
大きな転機となったのは一七五七年。
この時代のインドには、数多くの王国や帝国が存在していた。
ヨーロッパや中米と同様に領土争いが絶えなかった。
特に注目すべきがベンガルという地域での内戦。
この内戦では反乱軍がイギリス東インド会社という組織に支援を求めた。
この会社実は世界的な貿易を行っているだけではなく、
自らの利益を守るために軍隊まで持っていた。
結果としてベンガルにイギリスが好き勝手に操れる、
傀儡の指導者を置くことができた。傀儡政治の誕生だ。
指導者はイギリスの言うことを聞かざるを得なくなった。

これがイギリスが次第にインド全体を制圧するきっかけとなった。
そして多くの地方の指導者たちはイギリスの意向を受け入れることで、
その見返りとして権威や、
当時の最先端の教育の機会を手に入れる選択をした。
一筋縄ではいかない関係というのはこういうことを言う。
それで何が起こったかというと貧困だ。
大飢饉が何度も起きた。しかもその理由が、
綿布の染料に使う藍や、麻薬アヘンの原料となるケシなどを作るせいだ。
小麦など食糧をつくるべき畑で、食糧を作れない。
食糧生産量は落ちる。
藍やケシをいくら栽培しても、腹の足しにはならない。
またイギリスの支配にはサティという火葬をしている炎のなかに、
未亡人が飛び込んで焼身自殺をするという慣行を禁止するなどの、
そういう様々な無理解があった。

しかしそれも一九一九年三月二一日のローラット法と、
一九一九年四月一三日のアムリットサル事件のあとで
イギリスの改革に対する支持を止めたために、
自治や完全独立を狙ってマハトマ・ガンディーにより、
一九二〇年九月四日に開始された
イギリスの経済を傷めつけるために、仕事をわざと止める方法で、
この戦術によって一九四七年、ついにインドは独立を果たした。
インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、
旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、
英語圏中心に商売をしている。

ところで歴史を振り返るとインドは過去五回統一されたことがある。
けれどそれらの統一は一過性で、どれも継続的には続かなかった。
統一はしても内部の対立や文化的な違い
様々な要因で統一が続かなかった。
独立を果たしたインドは、機能的な政府を持たない国家という、
ジレンマに直面した。
インドは一二二の言語が少なくとも百万人以上の人達によって話されていたり、
(正確には六〇〇程度であり、方言を除くと二六〇ともいう、
中間をとって三〇〇ぐらいと覚えておくといいかも知れない)
文化や地域ごとの習慣も多彩、
それらの差異を埋めるのは本当に大変な作業だった。
それに対処するために中央政府はインフラに大きな投資をするという、
経済的な手段を選んだ。

つまり経済的なインセンティヴを提供することで、
裕福なエリートや事業家たちに国としての統一の利点を示すことができた。
インド全体での貿易の拡大により、
これらのエリートたちはもっとお金を稼げるようになる。
とはいえ、人々を物理的にも心理的にも結びつける役割を果たし、
これにより国内での移住や交流が促され、
異なる地域の人々が互いにもっと知ることができるようになる。
理屈を超えた状況を想定する場合、まずお金だということがわかる。
結果として個人は自分の地域よりも、
インド全体を意識するようになり
国民全体のアイデンティティが育てられる。

これは今現在IT大国として幅をきかせている、
経済大国であるインドが同時に、
二億人も貧困に苦しんでいるのかということでもある。
また教育も十分ではないという側面もあるが、
一部の人達は先進国と肩を並べている。
すべての人がそうなるというのは言語の数や、人の数的にも難しい。
インドの選挙について当てるべき焦点は、
「政治」よりも「政策」である。

日本でも夜中に人はいるものだが、
そこで家がなくて寝泊まりしているという光景が、
都市部でもあるなんていうことは中々想像できない。
それは少数派であるが、インドではごく普通に存在する。
また日本とは違ってスラム街というのが存在する。
(公共サービスが受けられない、治安が悪い、
衛生状態が良くない、過度な人口密集といった、
多くの問題を抱える居住地域を指す「スラム街」というこの言葉は、
犯罪と隣り合わせ、明日死ぬかも知れない人々という意味でもある、)
それが当たり前という状態が長く続いている国というのは、
「餓死する人がいる」のも、「貧しい人がいる」のも、
「教育がいきわたっていない」というのも当たり前だということだ。
外部からの働きかけでそれをどうにかすることはできても、
前述したようにインドにはインドの考え方というのがある。
ただ、歴史的にインドには外部からの働きかけで、
よくなってきたようなところがあるのも事実だ。

これは対外的には平等を謳った一九四七年、インドの独立とともに、
カースト制度は廃止され、
それらに基づく差別を禁止するということになっているが、
いまでもなお、様々な問題を引き起こしている。
だが、インドでは、長年にわたり、
ヒトラーが獄中で著作を開始した本、
我が闘争』がベストセラーになっている。
ビジネススクールの学生の必読書。
この背景にも実はこういう呪われた制度がある。
ヒトラーを物事を成し遂げるカリスマ性のある男と見ていて、
英雄を好むのはしかしまあ世界中そうだろうが、
インド人にとってヒトラーは英国を斥けた英雄なのだ。
とはいえ、そういう考えを持たない人ももちろんインドにはいる。
よい中国人もいれば、よいインド人もいる。
悪い日本人もいれば、悪いインド人もいる。

偏見に充ち満ちた悪い奴がインドにはいっぱいいる、
という考えは正直まったく推奨できない。
それは群馬県を秘境と見なすような考えであり、
埼玉県を田舎と決めつけ、
大阪の西成を麻薬栽培の本場、ヤクザの親戚、
シンナー中毒の宝庫と見なすようなものである。
ただ、文化が違う、常識が違う、
世界に出れば多かれ少なかれこういうことがある。
一度悪い目に遭うと絶対にそういう言い方になる。
会社の外国旅行の折に、僕ではないけれど、
リュックサックが切り裂かれたということがある。
日本ではまず絶対にないことだ。
「インドはタイを十倍ぐらいに濃くした感じ」という意見もある。
場合によっては犯罪に遭遇することがあるということを、
忘れてはいけない。
「愛や平和」を銃を持った人々に語り掛ける人は馬鹿である。
「暴力」というのは世界中でもっとも簡単なお金の稼ぎ方なのだ。

地政学的追い風や、中国経済の成長鈍化、そしてインド自身についても、
本格的経済発展の段階への移行となりながら、
とはいえ、とはいえである、成長限界を感じるのは何故だろう―――。

ド派手な制服を身にまとったインド国境治安部隊と、
パキスタン・レンジャーによるお互いを挑発しているような、
実にアグレッシブな儀礼式でも見よう。
インド伝統の編み上げ式ベッドをものの数分で完成させる職人技を見よう。
いやいやまだまだ。
全シリアvsマッチョのすごい肉弾バトルを描くインド映画「Baaghi 3」
を見よう。
インドの性典「カーマ・スートラ」を、
「ツイスター」っぽく学べるマット「KarmaSheetra」で性の秘儀を学ぼう。
それから日本の銀座にある、
日本最古のインドカレー屋「ナイルレストラン」で、
創業当時の味を堪能してみよう。

さて、インドの独立は食糧問題と隣り合わせだ。
国家自体の経済モデルも資本主義とソ連共産主義の要素を組み合わせた、
ハイブリッド・システムだったが、
最終的に待ち受けていたのは経済成長をしようにも、
自国が足を引っ張る構造だ。
そこにはエリート層の利益を独占したいという思惑があり、
忖度と委縮だ。しかしこれが国家に圧迫をかける。
指令経済というのが極端化すると内部腐敗が生まれる。
そして政府の強い経済管理が経済効率の低下を招き、外国の顧客が減少する。
税収が落ち込むと
インドはさらに外国からの援助を必要とするようになり、
経済の非効率と、顧客の喪失が続く。
それが続くと税収はどうしても下がるような仕掛けになり、
税収が下がるとますます外国の援助に依存する、
それがさらに厳しい経済統制を求める、一切救われない構造。

救われない構造といえばインドのスラム街だ。
マラリア結核の年間件数が二百万件以上。
病院に行ける人もいるが行けない人もいる。
生まれによる差別があった時代が終わったとしても、
いまなお、職業の道が制限されている。
いいことだけでは続かないのが世の中、
悪いことは少しずつ改善していくしかない。
一つの差別が完全に撤廃されるということは、
十年や二十年ではきかない、五十年、百年、
場合によっては数百年の時間を経なければならない。

だのにインドはたった七十年もの間を人口を四倍にし、
しかもインドの人々は若い。
インドは数学王国である。
インド北部アーグラにある荘厳な建造物タージ・マハルは、
世界一美しい霊廟ともいわれ、調和のとれた左右対称の美しさだ。
インド南部の都市バンガロール
街のあちこちで目を引くのは、
パソコンやインターネット関係の企業の看板だ。
この町には情報通信技術、
いわゆるICT関連産業の会社が数多く集まっている。

インドの自立はソ連と米国に依存する形であり、
自国で生産を消費するという国内向けのサービスしか展開できなかった。
それでも米国はインドの潜在的な市場を見越して動く対外援助の大手国として、
インド市場をアメリカ企業に開放するよう圧力をかけた。
それによってインドは近代的な工場を作るきっかけとなり、躍進を遂げた。
今現在日本企業が一四〇〇社以上がインドでビジネス展開している。
会社の存続や売上拡大のために期待を膨らませてというのはあるが、
「コストの安さ」「経済発展による消費購買力の向上」
というのに眼を向けているということだ。