koichang’s blog

詩のノーベル賞を目指す、本を出さない、自由な詩人。

夜の雨







夜の山の獣道を一歩一歩歩き、
収束点はなく、テーマもなく、何処に辿り着くでもなく、
たんにだらだら描き継がれ、
描き継がれるという行為のみに支えられ、
先験的視覚は鰻となりながら不安が身体の一部から融け、
時折蜘蛛の巣に引っかかったり、
蚊に刺されたりしながらも奥へ奥へと進んでいく。
空白の中を押進んでゆく機械力の流れ。
懐中電灯が闇を照射する。
口の中が枯草をいっぱい押し込まれたように乾き切っていた。
「あの岩は人の顔に見える」とか、
「大きな鳥がいる」と、はしゃいでいた。
マイナスイオンの効果なのか、
心が洗われるような気分になってくる。
―――空元気だ、虚勢だ、
それを好奇心とか、ありったけの勇気という、
鉄製のカーテンで遮蔽する。
引力のようなものに、引き寄せられて、重心が動き―――。
少し傾く・・・・・・。
やがて有刺鉄線があり、
木材でこしらえたバリケードが見えてきた。
そのすぐ向こうに、人が立っていた。
人物観察をする暇もなかった。
蜃気楼は、空気のバネに押し戻され、
すぐに忽然と、何の拍子もなく、消えた。
血が凍り、凍った血が、
爬虫類のような感情の生態を捕まえる。
言うまでもない。
貶すわけではないが、触れるまでもない。

『後ろを振り返ってはいけない』
―――と、スプレーで木製の看板に書かれていた。
本来は、「関係者以外立ち入り禁止」
と書かれた古ぼけた小さな看板。
スマホの『カシャッ』という音と、
フラッシュ光が瞬く。

数分ほど歩いて、開けた場所に出ると、
すぐにお目当ての廃墟が見つかった。
コーヒーゼリーに白玉とソフトクリーム・・・・・・。
小さな蟻が国会議事堂を眺めているような気がする。
二階建ての白亜の、瀟洒な一軒家だが、
それとて、どこか薄汚く、
窓は無残に割れ、外壁はところどころ剥げており、
本来の壁の色であろう焦げ茶色を覗かせていた。
上眼遣いに宙を見つめ、
引締った頬が緊張のためにピリピリ震え、
ごく―――り・・と唾を呑み込む。
塀を乗り越え侵入した。
一瞬、視界に靄が覆う。
聖母受胎のような、手汗のひどさ。
確かめたい要求が襲う、
これ何だろうと思ったものの、すぐに消える。
磁場を意識する、自然からある支配を受けていることを知る。
エミール・ノルデの「生者の仮面Ⅲ」や、
オットー・ラップの「事物を超えた心の劣化」や、
オディロン・ルドンの「笑う蜘蛛」を想像する・・。
イギリスのロンドンにある蝋人形だらけのマダムタッソー館・・。
息を整える。
廃墟の外周を一周し、特に大きな異常がないことを確認する。
正面のドアは台風の備えのように木の板で斜めに十字を描いて、
封印されている。

窓から入る。
硝子の戸が壊されていて、
白いレースのカーテンが揺れていた。
その部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、
異様な感覚が頭を走りぬけ、咄嗟に足を戻した。
鋭敏な嗜欲にみちた常の状態を凌駕する気分。
小動物の尻尾のように垂れていた花房が、
急に伸び開き簇生した莟が破れて、
あでやかな紫の雲を棚引かせるように、
ぼんやりした朦朧たる眼、
固く結んだ蒼い唇。
そんなはずないと、もう一度足を入れると、
見えない領域感覚は消失した。
だが、XをYとして見立てるように、
醜穢の洞穴であるという事実は消えない。
全身の毛穴という毛穴が開いたそこへと、
滑り落ちてゆく黒豹の毛皮。
屍鬼の採餌という言葉がよぎる。
それでもその感覚を無視し、
無理矢理そこに入って行く。

湿気っぽい臭いや、埃の感覚が鼻を劈く中、
探索し甲斐がありそうな一階を後に取っておき、
真っ先に二階部分の探索を始めた。
内部と外部の食い違いを自覚しながら、
不思議な冷気を含んだ風が現在を追憶させている。
老朽化し、人が長い間住んでいない建物は末期症状を訴え、
濡れた煎餅にグリスを塗ったような無限の階段、
ギシギシと軋む階段は既に腐っており、迅速な一瞥と吟味。
乾燥した木の刺が靴に刺さって来る。
いつ階段が崩落するかはわからない。
無事に登りきるだけで妙な緊張感が走る。
侵蝕されてゆく円形の持つ秩序や枠。
左右正面に三部屋あるらしい二階を探索する。
廊下に薄い皿が飾られている、古伊万里だろうか?

右の部屋を選んだ。
右の部屋のドアノブをゆっくりと捩じり、ドアを開く。
過剰でもなく過少でもない中間のある、
適当な段階のある範囲内にある部屋。
どうやら子供部屋だったらしく、
ミニカーや絵本などが片付けられないまま部屋中に散らばっていた。
もしくは、荒らされたかのどちらかだろう。
そこから燃えてくる空気は黴の間にある霊気。
洋服が沢山掛けられてる箪笥の中に手を突っ込んだ時、
いきなり手をグッと握られた。
吸い取り紙で拭ったような未踏地。
眼球は浮遊する。
権利の主張、徹底的な虚無主義の出現。
だが、ひと思いにそれを引きずり出そうとすると、
蛸の肢のようにしゅるっと戻った。
心拍数が上がる。
玩具や絵本を踏まないように気を付けながら、
ゆっくりと部屋全体を探索する。
部屋の電灯が、
風も無いのにゆらゆらと揺れている。
傷口の脈動痛のような時間の燃焼。
産声を上げている。
だが、地震のようなものかと気にも留めない。
薄弱な反動に過ぎない。
目的の為に人格を圧迫する。

玩具箱の上に写真の入った額縁があるのに気が付いた。
青磁色の納豆を古雑巾でくるんだような体臭。
覗き込んでみると、赤子を抱きかかえた母親らしき人物と、
その隣に並ぶ父親らしき人物だった。
この建物の在りし日の所有者なのだろう。
不意に変な音が流れた、隅にあるラジオだ。
妙な音がフェードインしてきている。
砂嵐とノイズ混じりの音の中に、
変則的な、男性の声を高く歪ませた声。
ボイスレコーダーで作ったような変声音が、
延々とリピートされ続けている。
何故それがそんなに恐ろしいの―――か。
何故そのことがこんなに胸を締め付けるの―――か。
公孫樹の枝から糸を引いてぶら下がっている毛虫のような、
日常の音響が次々に消えてゆくのが感じられた。
為す術もなく、じりじりとした時を過ごす。
やがて―――停止した。

頭の中で、
「人身事故の為、電車が遅れております」
というアナウンスを思い出した。
心臓の吸い込む力のような黒い白痴がそうさせた。
眼を閉じているのに手の自然薯のような感覚が消えない。
アナウンスを口に出してみると、
「人身事故の為、一時運転を見合わせております」
と口にしていた。

気味が悪く、部屋の空気が急にどんよりしたような気がし、
すぐに部屋を出た。
その次に用意されているあの羽撃きのようなものを予期し、
狭い廊下で煙草を喫う。
火事を起こすつもりはないので携帯灰皿に入れる。
数分休憩する。
そうしていると既に心の統制を失いそうだった状態は、
静謐な夜を受け入れる準備を始めていた。
小鼻の脇を通る小さな虫が小人を造形する。
息を詰め、左のドアを開けてみる。
単調な、広漠たる、あらゆるものの音を呑み込んでしまうような、
沈黙をなしている部屋。
ベッドの上に風化した毛糸と、
裁縫セットが放置されていた。
理解可能な属性の中に圧縮された寝床の皺が蘚苔類を想起させる。
壁には濃紺、紫、薔薇色、薄青、パールグレイなど、
さまざまな色の絹や綿の長い布を広げている。
それはまたつぎつぎに、
古い墓地、森の奥、海辺の崖、煉瓦のトンネルへと姿を変える。
絵具が下へと流れるように原始人が棒を握る。
頭の中で変なことを考える。
少量の毒茸を食べるぐらいなら平気だが、
刺身状にして焼いたその一口目はいいが、
二口目からは命の保証がない。
だが、その均衡があやしく胸をときめかせ、
夜の絵本を発酵させ、酢で煮しめた魚の内臓の臭いをさせ、
毒を美にもする恐怖を獣化させる。

最後のドアの向こうは、
物置になっているようだった。
魅力的な記号は社会の展開のモデルを浮き彫りにする。
いくらか古い時代の電子レンジや掃除機が見え、
段ボールが無造作に積まれていた。
そこには生活の吊り橋のような楽器の空洞が見えた。
廊下に戻ると、四つ目の扉が、
何処からともなく出てきている。
表情の中に、沈鬱な色が濃くなった。
散々迷った末に、開けた。
拍子に、顔のない、眼と鼻と口がない、
つまり顔の部品が存在しない、
自分と同じ格好をした者がそこにいて、
その背後には沢山の顔のないマネキンのような者がいた。
オーマイキーを想像した。
とはいえ、もっとマネキンではなく肉体に寄せ、
最終的にのっぺらぼうにしたような感じだ。
胃袋だけの化け物が原子の核のように創造されている。
ざわざわと声が拡がっている、異空間、
そのまま開け続けていれば間違いなく引きずり込まれる。
否定し、愛し、殺し、限りなき欲望は覗き込む、深淵。
すぐに閉じた。
閉じると扉は何の前触れもなく消えた。
ホログラフィー型というわけだ。
それは現代にもある。
そう思ったあと、引き攣った笑いを浮かべた。
宇宙の無常は固定化した共犯者の体験報告書だ、
源流に遡りながら、全然思っていることとは逆のことを言う。
消えた拍子に足元に鍵が落ちているのに気付いた。
ドロップアイテムなのかも知れない。

それから腐った階段を降り、
一階部分の探索を開始した。
霊応盤のプランセットに導かれるように、
リビング部分やダイニング部分はひどく床が軋んでいた。
テーブルの下には大量の蜘蛛の巣が張り巡らされ、
川向こうの草のそよぎのように、
蜘蛛の死骸がいくつか引っ掛かっていた。
トイレとバスルームには薄い腐敗臭とともに、
大量の蛆が湧いていた。
蒸発皿は時間を未知のものから体験済の世界へと、
ヴィトゲンシュタインする。
思わず声を上げてドアを強く閉めた。
隠された自然のエネルギーは地質学の断層を見た。
どちらも閉めた拍子に水が流れる音が聞こえ、
換気扇が回る音が聞こえた。
電気も水道も、
とうの昔に通っていない。

キッチンに闖入する時はさすがに身構えた。
包丁がいきなり襲い掛かって来るかも知れない。
だが、その心配はなかった。
しかし胸をなでおろしている暇はなかった。
形式論的悪循環は、聞いていたからではなく、
わかっていたではなく、
行為の内側を盗む寝息にまで這いよっていく。
キッチンの冷蔵庫はどうやら、
中に物が入った状態で、
放置されていたらしく、
腐った肉や野菜の汁が床に垂れ、
大量の小蠅や蛆、鼠の死骸で地獄の様相を呈し、
鼻がひん曲がるほどの腐敗臭がした。
現象が脅迫する。
病気に直結するような威嚇的な形相のもと、
おぞましさに鳥肌が立ち、
慌てて窓から外に出た。
顔の上に蠅がはいまわっているような反射的な影。
外の新鮮な空気が美味しく感じるくらいには、
臭いが酷かった。

帰りたいという弱音がこみあげてくるのを感じ、
お守りを握り締めている。
一秒、一秒の静かな光線の足どりがここに立ちどまって、
一秒、一秒のひそやかな空気が向こうから流れてくる。
誤解と混乱の歴史が厭離な欲望を導き出した。

だが、外へ出た拍子に、
庭の周辺の地面が混凝土であることに気付いた。
もしやと思って懐中電灯で足元を照らしながら、
狙いを定めながら、左右の足を規則正しく動かしながら、
生乾きの洗濯物となりながら、
重点的に家を一周してみると無秩序な夢を開く感染のなかに、
金属製のハッチが見え、
簡単な仕掛けだ、
南京錠と混凝土に埋め込まれた二本の鎖により、
鍵が掛けられている。

いたずらに先の見えない、
黒洞洞たる階段を降りた。
降りてしまった。
後退することのない進撃。
さりとて、黴臭い臭いがする。
新しい要素が増えただけで恐ろしくてたまらなくなる。
良心は疎ましい、咽喉に背を立てた猫みたいな夜を、
意味を、属しているはずの世界を、赤ん坊みたいな白紙に戻す。
普段見えなかった幽霊が、
ずっとそこにいたと知るように、だ。
階段を降りた先には、
コンクリート造りの横に長い部屋だった。
そして扉が二つ立ち並んでいた。
ギラッと光った。
手許から切先まで澄み切った硬い鋼の光。
部屋には車椅子があった。

都市伝説の通りだった。
都市伝説の『天国』は、
地上世界から天国へ行くルートについて、
詳細に語られていた。
それはネット掲示板に投稿された。
送信者は実際的には役に立たない中間主義ではなく、
また穏健派ではなく、分裂主義だった。
魂はいつの時代もどこかに入口や出口を求めている。

不意に臨死体験の話を思い出す。
臨死体験とは、
「医者の死の宣告を見ている」
「自分自身を宙から抜け殻となった在りし日の自分を俯瞰する」
「突然トンネル状の暗闇の中へ入る」
「亡くなっている家族や友人と会う」
「光の精のようなものが現れ、生死の選択を迫る」
「一生の出来事が次々思い出される走馬灯体験をする」
など、だ。

臨床心理学者ヘレン・ウォームバック博士が、
被験者七五〇人に逆行催眠をかけた特異な実験がある。
そこで前世や、天国でのことが証言されている。
整形手術された下品な染色や漂白のような社会の告発さながらに。
「生まれ変わった後の、次の人生について、
何らかの情報を持っていたか?」という問いに対して、
八七パーセントの人が「知っていた」と答えた。
さらに九〇パーセントの人が「霊界は楽しいところだった」と語り、
生まれ変わるのを望んでいた人は全体の二六パーセントで、
大半の人は生まれてくることを望んではいなかった。

都市伝説の『天国』はそのことを詳細に語りながら、
最後の方で、実はとある廃墟で天国へと戻れるという、
噂があるというのを、マルチ詐欺の舞台となる喫茶店で、
信仰宗教信者がそんなことを語っていたと聞いた。
眉唾物だったが、いくつかのヒントがあって、
それは電車二駅で行ける、身近な、
近くのホラースポットに違いなかった。
輪廻、カルマ、汎神論といった要素がごちゃ混ぜになって、
闇鍋のように煮えている場所。
だが、肝心の情報は何も語られていなかった。
そもそも、ここに建物がある事自体、一つの賭けだった。

そこには二つの厳めしい鉄製の扉が見えていた。
顔から血の気が引いていくことに気が付いた。
怖いのを我慢しながら、怯えながら、
ここまで来てしまったような気がした。
物事の進行と変化を出し抜こうとする思考も、
いまでは瞳と睫毛とのように黒曜石のように結晶している。
逃げ場のない状況も相まって、本当の恐怖から、
身体全体の力が抜けていくのを感じた。
ベルトコンベアに載せられたように忘れ去られた、
先程の出来事が咽喉に刺さった小魚の骨のように、
明瞭に思い出される。
膝はとうの昔に震えている。
人は本当の恐怖を感じた時、怒りにも似た衝動に駆られる。
そしてそれは自分自身に対して、だ。

「体操服を違うクラスの女子の机に入れられた」
―――言ってみる。
「上履きを濡らされた」
―――言ってみる。
「足を思いっきり蹴られた」
―――言ってみる。

ふと気づく。
何かおかしい。
世界はこんな灰色がかった色だったろうか?
誰も乗っていない車椅子が、ぎーこぎーこ、と動き出す。
それはゆっくり自分の前まで来て止まった。
タクシーの話を思い出す。
タクシーの運転手がふとした瞬間に消え、
無人タクシーとなったかと思って外へ飛び出すと、
急ブレーキの音が聞こえ轢かれるという話だ。
不思議と恐怖はなかった。
ガラス板の上で消化不良というものを、
眺めているような大理石の彫像。
扉を開ける勇気がないことを諭されている気もしたし、
この扉を開ける資格があると言われている気もした。
ぺこりと頭を下げて振り返った。
階段はなかった。
扉が開く音が聞こえた。
どちらの扉が開いたのかはわからなかった。
鏡面の垂直が藁半紙の切り抜きみたいに思える。
どちらが天国で地獄なのかもわからなかった。
部屋の中は薄暗く、あまり目が良くないので、
誰が来たかまでは分からなかった。
不意に思い出す。

『後ろを振り返ってはいけない』
―――と、スプレーで木製の看板に書かれていた、
文字を思い出す。
その観念の文字が、皮膚感覚を伴った文字が、
輪郭という線による発症を伴った疾走する文字が、
スマホの『カシャッ』という音と、
フラッシュ光が脳裏に閃く。

何かが慌てて南京錠を取り付けていた。
何かが鍵を閉め、
再び元通りの脱疽のような静寂に戻った。
振幅の短くなった、冷酷な懈怠の、
歪んだ反映の時計面。
悲鳴は聞こえなかった、
ばたん、と扉を閉める音が聞こえた。
帝王切開のように後は残ったようにも見えたが、
夜は野蛮な独善的な態度でフェードアウトし、
どんどん霊妙な不可思議な香気をもった、
月の惑星のように女の顔が接近してくる、
―――生贄に拍手をするような夜の雨が。