夜の山の獣道を一歩一歩歩き、
収束点はなく、テーマもなく、何処に辿り着くでもなく、
たんにだらだら描き継がれ、
描き継がれるという行為のみに支えられ、
先験的視覚は鰻となりながら不安が身体の一部から融け、
時折蜘蛛の巣に引っかかったり、
蚊に刺されたりしながらも奥へ奥へと進んでいく。
空白の中を押進んでゆく機械力の流れ。
懐中電灯が闇を照射する。
口の中が枯草をいっぱい押し込まれたように乾き切っていた。
「あの岩は人の顔に見える」とか、
「大きな鳥がいる」と、はしゃいでいた。
マイナスイオンの効果なのか、
心が洗われるような気分になってくる。
―――空元気だ、虚勢だ、
それを好奇心とか、ありったけの勇気という、
鉄製のカーテンで遮蔽する。
引力のようなものに、引き寄せられて、重心が動き―――。
少し傾く・・・・・・。
やがて有刺鉄線があり、
木材でこしらえたバリケードが見えてきた。
そのすぐ向こうに、人が立っていた。
人物観察をする暇もなかった。
蜃気楼は、空気のバネに押し戻され、
すぐに忽然と、何の拍子もなく、消えた。
血が凍り、凍った血が、
爬虫類のような感情の生態を捕まえる。
言うまでもない。
貶すわけではないが、触れるまでもない。
『後ろを振り返ってはいけない』
―――と、スプレーで木製の看板に書かれていた。
本来は、「関係者以外立ち入り禁止」
と書かれた古ぼけた小さな看板。
スマホの『カシャッ』という音と、
フラッシュ光が瞬く。
数分ほど歩いて、開けた場所に出ると、
すぐにお目当ての廃墟が見つかった。
コーヒーゼリーに白玉とソフトクリーム・・・・・・。
小さな蟻が国会議事堂を眺めているような気がする。
二階建ての白亜の、瀟洒な一軒家だが、
それとて、どこか薄汚く、
窓は無残に割れ、外壁はところどころ剥げており、
本来の壁の色であろう焦げ茶色を覗かせていた。
上眼遣いに宙を見つめ、
引締った頬が緊張のためにピリピリ震え、
ごく―――り・・と唾を呑み込む。
塀を乗り越え侵入した。
一瞬、視界に靄が覆う。
聖母受胎のような、手汗のひどさ。
確かめたい要求が襲う、
これ何だろうと思ったものの、すぐに消える。
磁場を意識する、自然からある支配を受けていることを知る。
エミール・ノルデの「生者の仮面Ⅲ」や、
オットー・ラップの「事物を超えた心の劣化」や、
オディロン・ルドンの「笑う蜘蛛」を想像する・・。
イギリスのロンドンにある蝋人形だらけのマダムタッソー館・・。
息を整える。
廃墟の外周を一周し、特に大きな異常がないことを確認する。
正面のドアは台風の備えのように木の板で斜めに十字を描いて、
封印されている。
窓から入る。
硝子の戸が壊されていて、
白いレースのカーテンが揺れていた。
その部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、
異様な感覚が頭を走りぬけ、咄嗟に足を戻した。
鋭敏な嗜欲にみちた常の状態を凌駕する気分。
小動物の尻尾のように垂れていた花房が、
急に伸び開き簇生した莟が破れて、
あでやかな紫の雲を棚引かせるように、
ぼんやりした朦朧たる眼、
固く結んだ蒼い唇。
そんなはずないと、もう一度足を入れると、
見えない領域感覚は消失した。
だが、XをYとして見立てるように、
醜穢の洞穴であるという事実は消えない。
全身の毛穴という毛穴が開いたそこへと、
滑り落ちてゆく黒豹の毛皮。
食屍鬼の採餌という言葉がよぎる。
それでもその感覚を無視し、
無理矢理そこに入って行く。
湿気っぽい臭いや、埃の感覚が鼻を劈く中、
探索し甲斐がありそうな一階を後に取っておき、
真っ先に二階部分の探索を始めた。
内部と外部の食い違いを自覚しながら、
不思議な冷気を含んだ風が現在を追憶させている。
老朽化し、人が長い間住んでいない建物は末期症状を訴え、
濡れた煎餅にグリスを塗ったような無限の階段、
ギシギシと軋む階段は既に腐っており、迅速な一瞥と吟味。
乾燥した木の刺が靴に刺さって来る。
いつ階段が崩落するかはわからない。
無事に登りきるだけで妙な緊張感が走る。
侵蝕されてゆく円形の持つ秩序や枠。
左右正面に三部屋あるらしい二階を探索する。
廊下に薄い皿が飾られている、古伊万里だろうか?
右の部屋を選んだ。
右の部屋のドアノブをゆっくりと捩じり、ドアを開く。
過剰でもなく過少でもない中間のある、
適当な段階のある範囲内にある部屋。
どうやら子供部屋だったらしく、
ミニカーや絵本などが片付けられないまま部屋中に散らばっていた。
もしくは、荒らされたかのどちらかだろう。
そこから燃えてくる空気は黴の間にある霊気。
洋服が沢山掛けられてる箪笥の中に手を突っ込んだ時、
いきなり手をグッと握られた。
吸い取り紙で拭ったような未踏地。
眼球は浮遊する。
権利の主張、徹底的な虚無主義の出現。
だが、ひと思いにそれを引きずり出そうとすると、
蛸の肢のようにしゅるっと戻った。
心拍数が上がる。
玩具や絵本を踏まないように気を付けながら、
ゆっくりと部屋全体を探索する。
部屋の電灯が、
風も無いのにゆらゆらと揺れている。
傷口の脈動痛のような時間の燃焼。
産声を上げている。
だが、地震のようなものかと気にも留めない。
薄弱な反動に過ぎない。
目的の為に人格を圧迫する。
玩具箱の上に写真の入った額縁があるのに気が付いた。
青磁色の納豆を古雑巾でくるんだような体臭。
覗き込んでみると、赤子を抱きかかえた母親らしき人物と、
その隣に並ぶ父親らしき人物だった。
この建物の在りし日の所有者なのだろう。
不意に変な音が流れた、隅にあるラジオだ。
妙な音がフェードインしてきている。
砂嵐とノイズ混じりの音の中に、
変則的な、男性の声を高く歪ませた声。
ボイスレコーダーで作ったような変声音が、
延々とリピートされ続けている。
何故それがそんなに恐ろしいの―――か。
何故そのことがこんなに胸を締め付けるの―――か。
公孫樹の枝から糸を引いてぶら下がっている毛虫のような、
日常の音響が次々に消えてゆくのが感じられた。
為す術もなく、じりじりとした時を過ごす。
やがて―――停止した。
頭の中で、
「人身事故の為、電車が遅れております」
というアナウンスを思い出した。
心臓の吸い込む力のような黒い白痴がそうさせた。
眼を閉じているのに手の自然薯のような感覚が消えない。
アナウンスを口に出してみると、
「人身事故の為、一時運転を見合わせております」
と口にしていた。
気味が悪く、部屋の空気が急にどんよりしたような気がし、
すぐに部屋を出た。
その次に用意されているあの羽撃きのようなものを予期し、
狭い廊下で煙草を喫う。
火事を起こすつもりはないので携帯灰皿に入れる。
数分休憩する。
そうしていると既に心の統制を失いそうだった状態は、
静謐な夜を受け入れる準備を始めていた。
小鼻の脇を通る小さな虫が小人を造形する。
息を詰め、左のドアを開けてみる。
単調な、広漠たる、あらゆるものの音を呑み込んでしまうような、
沈黙をなしている部屋。
ベッドの上に風化した毛糸と、
裁縫セットが放置されていた。
理解可能な属性の中に圧縮された寝床の皺が蘚苔類を想起させる。
壁には濃紺、紫、薔薇色、薄青、パールグレイなど、
さまざまな色の絹や綿の長い布を広げている。
それはまたつぎつぎに、
古い墓地、森の奥、海辺の崖、煉瓦のトンネルへと姿を変える。
絵具が下へと流れるように原始人が棒を握る。
頭の中で変なことを考える。
少量の毒茸を食べるぐらいなら平気だが、
刺身状にして焼いたその一口目はいいが、
二口目からは命の保証がない。
だが、その均衡があやしく胸をときめかせ、
夜の絵本を発酵させ、酢で煮しめた魚の内臓の臭いをさせ、
毒を美にもする恐怖を獣化させる。
最後のドアの向こうは、
物置になっているようだった。
魅力的な記号は社会の展開のモデルを浮き彫りにする。
いくらか古い時代の電子レンジや掃除機が見え、
段ボールが無造作に積まれていた。
そこには生活の吊り橋のような楽器の空洞が見えた。
廊下に戻ると、四つ目の扉が、
何処からともなく出てきている。
表情の中に、沈鬱な色が濃くなった。
散々迷った末に、開けた。
拍子に、顔のない、眼と鼻と口がない、
つまり顔の部品が存在しない、
自分と同じ格好をした者がそこにいて、
その背後には沢山の顔のないマネキンのような者がいた。
オーマイキーを想像した。
とはいえ、もっとマネキンではなく肉体に寄せ、
最終的にのっぺらぼうにしたような感じだ。
胃袋だけの化け物が原子の核のように創造されている。
ざわざわと声が拡がっている、異空間、
そのまま開け続けていれば間違いなく引きずり込まれる。
否定し、愛し、殺し、限りなき欲望は覗き込む、深淵。
すぐに閉じた。
閉じると扉は何の前触れもなく消えた。
ホログラフィー型というわけだ。
それは現代にもある。
そう思ったあと、引き攣った笑いを浮かべた。
宇宙の無常は固定化した共犯者の体験報告書だ、
源流に遡りながら、全然思っていることとは逆のことを言う。
消えた拍子に足元に鍵が落ちているのに気付いた。
ドロップアイテムなのかも知れない。
それから腐った階段を降り、
一階部分の探索を開始した。
霊応盤のプランセットに導かれるように、
リビング部分やダイニング部分はひどく床が軋んでいた。
テーブルの下には大量の蜘蛛の巣が張り巡らされ、
川向こうの草のそよぎのように、
蜘蛛の死骸がいくつか引っ掛かっていた。
トイレとバスルームには薄い腐敗臭とともに、
大量の蛆が湧いていた。
蒸発皿は時間を未知のものから体験済の世界へと、
ヴィトゲンシュタインする。
思わず声を上げてドアを強く閉めた。
隠された自然のエネルギーは地質学の断層を見た。
どちらも閉めた拍子に水が流れる音が聞こえ、
換気扇が回る音が聞こえた。
電気も水道も、
とうの昔に通っていない。
キッチンに闖入する時はさすがに身構えた。
包丁がいきなり襲い掛かって来るかも知れない。
だが、その心配はなかった。
しかし胸をなでおろしている暇はなかった。
形式論的悪循環は、聞いていたからではなく、
わかっていたではなく、
行為の内側を盗む寝息にまで這いよっていく。
キッチンの冷蔵庫はどうやら、
中に物が入った状態で、
放置されていたらしく、
腐った肉や野菜の汁が床に垂れ、
大量の小蠅や蛆、鼠の死骸で地獄の様相を呈し、
鼻がひん曲がるほどの腐敗臭がした。
現象が脅迫する。
病気に直結するような威嚇的な形相のもと、
おぞましさに鳥肌が立ち、
慌てて窓から外に出た。
顔の上に蠅がはいまわっているような反射的な影。
外の新鮮な空気が美味しく感じるくらいには、
臭いが酷かった。
帰りたいという弱音がこみあげてくるのを感じ、
お守りを握り締めている。
一秒、一秒の静かな光線の足どりがここに立ちどまって、
一秒、一秒のひそやかな空気が向こうから流れてくる。
誤解と混乱の歴史が厭離な欲望を導き出した。
だが、外へ出た拍子に、
庭の周辺の地面が混凝土であることに気付いた。
もしやと思って懐中電灯で足元を照らしながら、
狙いを定めながら、左右の足を規則正しく動かしながら、
生乾きの洗濯物となりながら、
重点的に家を一周してみると無秩序な夢を開く感染のなかに、
金属製のハッチが見え、
簡単な仕掛けだ、
南京錠と混凝土に埋め込まれた二本の鎖により、
鍵が掛けられている。
いたずらに先の見えない、
黒洞洞たる階段を降りた。
降りてしまった。
後退することのない進撃。
さりとて、黴臭い臭いがする。
新しい要素が増えただけで恐ろしくてたまらなくなる。
良心は疎ましい、咽喉に背を立てた猫みたいな夜を、
意味を、属しているはずの世界を、赤ん坊みたいな白紙に戻す。
普段見えなかった幽霊が、
ずっとそこにいたと知るように、だ。
階段を降りた先には、
コンクリート造りの横に長い部屋だった。
そして扉が二つ立ち並んでいた。
ギラッと光った。
手許から切先まで澄み切った硬い鋼の光。
部屋には車椅子があった。
都市伝説の通りだった。
都市伝説の『天国』は、
地上世界から天国へ行くルートについて、
詳細に語られていた。
それはネット掲示板に投稿された。
送信者は実際的には役に立たない中間主義ではなく、
また穏健派ではなく、分裂主義だった。
魂はいつの時代もどこかに入口や出口を求めている。
不意に臨死体験の話を思い出す。
臨死体験とは、
「医者の死の宣告を見ている」
「自分自身を宙から抜け殻となった在りし日の自分を俯瞰する」
「突然トンネル状の暗闇の中へ入る」
「亡くなっている家族や友人と会う」
「光の精のようなものが現れ、生死の選択を迫る」
「一生の出来事が次々思い出される走馬灯体験をする」
など、だ。
臨床心理学者ヘレン・ウォームバック博士が、
被験者七五〇人に逆行催眠をかけた特異な実験がある。
そこで前世や、天国でのことが証言されている。
整形手術された下品な染色や漂白のような社会の告発さながらに。
「生まれ変わった後の、次の人生について、
何らかの情報を持っていたか?」という問いに対して、
八七パーセントの人が「知っていた」と答えた。
さらに九〇パーセントの人が「霊界は楽しいところだった」と語り、
生まれ変わるのを望んでいた人は全体の二六パーセントで、
大半の人は生まれてくることを望んではいなかった。
都市伝説の『天国』はそのことを詳細に語りながら、
最後の方で、実はとある廃墟で天国へと戻れるという、
噂があるというのを、マルチ詐欺の舞台となる喫茶店で、
信仰宗教信者がそんなことを語っていたと聞いた。
眉唾物だったが、いくつかのヒントがあって、
それは電車二駅で行ける、身近な、
近くのホラースポットに違いなかった。
輪廻、カルマ、汎神論といった要素がごちゃ混ぜになって、
闇鍋のように煮えている場所。
だが、肝心の情報は何も語られていなかった。
そもそも、ここに建物がある事自体、一つの賭けだった。
そこには二つの厳めしい鉄製の扉が見えていた。
顔から血の気が引いていくことに気が付いた。
怖いのを我慢しながら、怯えながら、
ここまで来てしまったような気がした。
物事の進行と変化を出し抜こうとする思考も、
いまでは瞳と睫毛とのように黒曜石のように結晶している。
逃げ場のない状況も相まって、本当の恐怖から、
身体全体の力が抜けていくのを感じた。
ベルトコンベアに載せられたように忘れ去られた、
先程の出来事が咽喉に刺さった小魚の骨のように、
明瞭に思い出される。
膝はとうの昔に震えている。
人は本当の恐怖を感じた時、怒りにも似た衝動に駆られる。
そしてそれは自分自身に対して、だ。
「体操服を違うクラスの女子の机に入れられた」
―――言ってみる。
「上履きを濡らされた」
―――言ってみる。
「足を思いっきり蹴られた」
―――言ってみる。
ふと気づく。
何かおかしい。
世界はこんな灰色がかった色だったろうか?
誰も乗っていない車椅子が、ぎーこぎーこ、と動き出す。
それはゆっくり自分の前まで来て止まった。
タクシーの話を思い出す。
タクシーの運転手がふとした瞬間に消え、
無人タクシーとなったかと思って外へ飛び出すと、
急ブレーキの音が聞こえ轢かれるという話だ。
不思議と恐怖はなかった。
ガラス板の上で消化不良というものを、
眺めているような大理石の彫像。
扉を開ける勇気がないことを諭されている気もしたし、
この扉を開ける資格があると言われている気もした。
ぺこりと頭を下げて振り返った。
階段はなかった。
扉が開く音が聞こえた。
どちらの扉が開いたのかはわからなかった。
鏡面の垂直が藁半紙の切り抜きみたいに思える。
どちらが天国で地獄なのかもわからなかった。
部屋の中は薄暗く、あまり目が良くないので、
誰が来たかまでは分からなかった。
不意に思い出す。
『後ろを振り返ってはいけない』
―――と、スプレーで木製の看板に書かれていた、
文字を思い出す。
その観念の文字が、皮膚感覚を伴った文字が、
輪郭という線による発症を伴った疾走する文字が、
スマホの『カシャッ』という音と、
フラッシュ光が脳裏に閃く。
何かが慌てて南京錠を取り付けていた。
何かが鍵を閉め、
再び元通りの脱疽のような静寂に戻った。
振幅の短くなった、冷酷な懈怠の、
歪んだ反映の時計面。
悲鳴は聞こえなかった、
ばたん、と扉を閉める音が聞こえた。
帝王切開のように後は残ったようにも見えたが、
夜は野蛮な独善的な態度でフェードアウトし、
どんどん霊妙な不可思議な香気をもった、
月の惑星のように女の顔が接近してくる、
―――生贄に拍手をするような夜の雨が。